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東京地方裁判所 昭和41年(合わ)67号 判決 1967年4月12日

被告人 佐藤功

主文

被告人は無罪。

理由

第一、本件公訴事実及び被告人側の主張

本件公訴事実は、被告人は、かねて遊興にふけり金銭に窮していたところ、昭和四一年一月二四日午後一一時一〇分頃東京都北区東十条四丁目一三番地東十条郵便局前の通称東十条バス通りを飲酒徘徊中、偶々泥酔して同郵便局前付近を通りかかつた麻雀屋店員伊藤哲子(当三八年)の姿をみとめるや、付近に人通りのないのを奇貨として、同女から金品を強取し、かつ、同女を姦淫しようと決意し、同女の傍に走り寄り、いきなりその右腕を掴んで、同郵便局南側木戸口から同郵便局中庭の暗がりに引き摺り込み、同女に抱きついて無理矢理接吻し、同女が悲鳴を上げるや、にわかに殺意を生じ、突嗟に左手で同女の口を塞ぎ、右手でその頸を絞めながら、その場に仰向けに押し倒した後、馬乗りになつて両手で同女の首を強く絞めつけ、仮死状態に陥つた同女のスカート、ズロース等を剥ぎ取り、強いて同女を姦淫し、次いで同女のトツパーコートのポケツト内から、現金三、〇〇〇円余及び国鉄定期乗車券在中の財布一個を抜き取つてこれを強取し、右頸部扼圧により、間もなく同所で、同女を窒息死させて殺害し、更に一旦同所を立去つた後、翌二五日午前一時頃再び同所に舞戻り、同女の右手首及びトツパーコートのポケツト内から女物腕時計外三点(時価合計一、〇〇〇円位)を奪い、これを強取したものである(罰条刑法第二四〇条後段、第二四一条前段。)、というのである。

被告人及び弁護人は、本件犯行は被告人と無関係であつて、全くの寃罪であるから、被告人は無罪である旨主張している。

第二、当裁判所の判断

一、被害の事実と発見前後の状況

1  被害の事実

<証拠省略>を総合すれば、昭和四一年一月二四日午後一一時五分頃から翌二五日午前五時四五分頃までの間に、東京都北区東十条四丁目一三番地東十条郵便局(同郵便局は、局長遠山泰司方居宅と棟続きになつているもの。)中庭において、同区東十条四丁目一二番地美幸荘内に居住する伊藤哲子(当三八年。以下被害者と略称する。)がスカート、ズロースなどを剥ぎ取られて強姦され、かつ、頸部を扼圧されて窒息死していること、被害者所有の定期乗車券(国鉄東十条駅から地下鉄神谷町駅間のもの)、女物腕時計、手袋半双、封書(手紙二枚同封)が奪取されていることをそれぞれ認めることができる(公訴事実中、被害物品である現金三、〇〇〇円余、財布一個、コンパクト一個の点については後述)。

1 被害発見前後の状況

<証拠省略>を総合すると、東十条郵便局局長遠山泰司は、同年一月二五日午前七時五分頃、飼犬の散歩のため、同家勝手口から戸外に出て玄関付近まで来たところ、女性の変死体(被害者)を発見し、直ちに警視庁王子警察署東十条派出所に届出たこと、同日午前七時二七分頃王子警察署係官が現場に到着し、直ちに捜査を開始し、午前九時頃警視庁捜査一課係官が現場に出動し、事件の引継ぎを受けて捜査を続行したこと、それより前の同日午前五時四五分頃、新聞配達人大野稔が右東十条郵便局南側木戸口から同郵便局中庭内に入り、右玄関先にあつた女性変死体の足許をよけるようにして、玄関左側の戸の隙間から新聞を差し込み、直ちに引返したが、同人は当時早朝のためまだあたりが薄暗く、新聞配達のため急いでいたこともあつて単に酔払いが寝ているものと考え、その傍を通り過ぎたことが認められる。

二、被害者の昭和四一年一月二四日の行動

<証拠省略>を総合すれば、被害者は、東京都港区芝神谷町二一番地麻雀荘「いこい荘」に店員として勤務していたものであるが、昭和四一年一月二四日午後六時すぎ頃、同郷の小坂喜八と会うため勤務先を早退し、午後七時頃赤羽駅前で同人と会い、同駅付近で立話をしたうえ、みかん二〇〇円、柿一五〇円を買つて貰い、午後八時二〇分頃同人と別れたのち午後九時すぎ頃、東京都北区神谷一の一〇番大衆酒場「喜良久」こと今関マサ方に入り、銚子四本、煮込みなど合計三六〇円の飲食をしたが、その際今関マサに対し、赤羽でビール四本飲んで来たといい、同店に入つた当初から少し酔つていたこと、飲食後午後九時五五分頃同店座敷にあつた電話を借用して植木原彬延に電話を掛けたが、そのときには相当に酩酊し、ろれつがまわらない位で体もよろけていたこと、被害者は電話を掛け終つてからすぐ代金三七〇円(電話代一〇円を含む。)を支払つて同店を出て、同店前でタクシーに乗り立去つたこと、被害者は午後一〇時頃から同一一時五分頃までの間東十条郵便局前の通り(以下東十条バス通りと略称する。)を泥酔の上徘徊し、同日午後一〇時すぎ頃東十条郵便局右斜め向い側の高田の軒下で、膝小僧を丸出しにして不体裁な格好でうずくまり苦しそうに嘔吐していたところを、同所を通行した市川淑子から介抱され、三人連れで同所を通行したうちの一人猪狩勝利及び東十条郵便局向い側の映画館日本館(高田方の北隣)に住み込みで勤務している増尾喜一も被害者が介抱されているのを目撃したこと、同所を通行した水沢静吾は、東十条郵便局の南一軒置いた宮崎貸本屋の前で道路側に向かいスカートがまくれ、下着が見えるような状態で道路上にしやがみこんでいた被害者を目撃し、磯野太郎は、午後一〇時二〇分頃右高田方の南一軒置いた釣具屋桑原方前でうずくまつている被害者の傍を通つて日本館の北隣の中華料理店「イスクラ」に入り、同店店員らに店外に若い綺麗な女の酔払いがいる旨告げたところ、店員らが店外に被害者を見に出たこと、磯野太郎は、飲食後の午後一〇時四五分すぎ頃右「イスクラ」を出て帰宅の途中被害者が東十条郵便局南側の木戸の左側(信濃屋ふとん店との境付近)にあつた空箱に俯伏せになつているところを目撃し、右「イスクラ」の経営者の息子行田敏夫は、客の磯野太郎から右のように美人の酔払いがいる旨を告げられ、直ちに店外に出て見たところ、高田方シヤツターに寄りかかつている被害者を目撃し、また午後一〇時三〇分頃に再度店外に出て見たところ、被害者が東十条バス通りの高田側から信濃屋ふとん店側に、前に行つたり後ろにもどつたり千鳥足で横断するのを目撃し、宮村茂は、午後一〇時五五分頃付近の長野屋食堂から東十条郵便局南側木戸口を通つて路地奥の遠山泰司の経営する下宿先に帰る途中、右木戸左側にあつた空箱に被害者が酔払つて俯伏せになつているのを目撃し、午後一一時五分頃風呂に行くため下宿から右木戸を通つた際、被害者が前と同じ場所で俯伏せたまますすり泣くような声を出しているのを見聞したこと、被害者を目撃した右通行人らは、すべて被害者が一見して泥酔していることがわかつたこと、午後一一時四五分頃には、同所付近を通つた風呂帰りの右宮村茂、二匹の犬を散歩させていた入山里子は、右郵便局南側の木戸口付近及び東十条バス通りに被害者を見なかつたこと、高田方軒先に一個所、郵便局南側木戸口の左側にあつた空箱付近に二個所、被害者がしたものとみられる嘔吐物が存在し、また、被害者の婦人用黒布製手袋左半双が宮崎貸本屋前道路上に落ちていたことをそれぞれ認めることができる。

右認定事実及び前記認定の被害発見前後の状況によれば、昭和四一年一月二四日午後一一時五分頃までは被害者が生存していたこと、翌二五日午前五時四五分頃には被害者が東十条郵便局中庭内に屍体となつていたことが認められ、山沢鑑定書によれば、屍体は、死後解剖着手時の同年一月二五日午後二時二八分までに半日前後経過しているものと推定されている。

三、被告人の昭和四一年一月二四日夕方から翌二五日にかけての行動

<証拠省略>を総合すると、被告人は、昭和三九年八月頃から肩書住居の高橋三好方に住込み大工として雇われ、当初日給一、七〇〇円、昭和四〇年九月頃からは日給一、八〇〇円の収入を得ていたものであるが、同四一年一月六日頃からは右高橋の指示により相沢建設株式会社の仕事に従事し、同月一七日からは横浜市中区山下町所在の朝日運輸株式会社の寮に泊り込み、同会社の寮、倉庫、事務所の増築工事に従事していたものであるところ、同月二四日は午後五時三〇分頃まで稼働した後、国鉄桜木町駅から京浜東北線電車に乗り東十条駅で下車し、午後八時乃至八時三〇分頃東京都北区東十条四丁目四番地バー「ハンター」こと内野常吉方(以下「ハンター」と略称する。)に至り、午後一〇時三〇分乃至四〇分頃までの間、日本酒銚子一三本等合計三、一五〇円の飲食をし、右代金中二、〇〇〇円を支払つて同居を出たが、同日午後一一時二〇分頃再び「ハンター」に入つて来て、第一回の残代金一、一五〇円を支払つたうえ、翌二五日午前零時頃の閉店までの間、日本酒銚子二本等合計九〇〇円の飲食をしたが、二回目の分はつけにして同店を出たこと、被告人は同店を出るや「ハンター」の女給広江ヒロ子の帰宅途中を追いかけ、同女が仁平彬に送られて帰るのに追い付き、右仁平と口論した後、翌二五日午前零時三〇分頃広江ヒロ子の住居である同都北区中十条二の二梢荘付近において右広江ヒロ子、仁平彬と別れ、高橋三好方に帰つたが、すでに玄関等出入口は鍵がかけられていたため、同人の使用人篠原脩らが就寝していた四畳半の部屋の窓から屋内に入り、就寝したことが認められる。

被告人の行動中、本件において主として問題となつているのは、(1) 被告人が一月二四日午後一〇時三〇分ないし四〇分頃「ハンター」を出て、同日午後一一時二〇分頃再び「ハンター」に現われた間の行動、(2) 翌二五日午前零時三〇分頃広江ヒロ子、仁平彬と別れてから高橋三好方に帰るまでの間の行動及び高橋三好方に帰つた時刻、(3) 「ハンター」を一旦出る時に飲食代金のうち一部だけしか支払わなかつた理由及び二回目に「ハンター」に来た際支払つた初回の飲食代の残金一、一五〇円の出所の三点である。

四、被告人が検挙されるに至つた経緯

(1)  <証拠省略>を総合すると、本件捜査は、現場保存に始まり、現場検証、付近一帯の実況見分等により現場の状況、遺留品発見、犯人逃走経路などに関する証拠を収集し、これと併行して聞込み捜査を行ない、被害者の身元確認、その足取り、犯人の割り出しに全力を傾注し、その結果、被害者は前記第二の一の1記載の伊藤哲子であること、前記第二の二で認定したように、被害者が同年一月二四日午後一〇時から一一時五分頃までの間、東十条バス通りの東十条郵便局前付近を酩酊のうえ徘徊し、付近路上で俯伏せたり嘔吐したりしていたのを通行人及び付近の住民が目撃していること、他方同日午後一一時四五分頃以降には被害者の姿を右路上で見掛けたものはないことが判明し、捜査当局は、犯行時間を同月二四日午後一一時頃から翌二五日午前零時頃までの間と推定し、その間の現場付近の通行人、犯行目撃者、挙動不審者の発見などに捜査の重点を置き、聞込みを続けていたところ、同年二月五日午後四時頃同都北区東十条四の五の一九バー「セブンハート」こと鈴木貞夫方(以下「セブンハート」と略称する。)において、同人及びその妻鈴木啓子から、同店女給山田滋子が同年一月二五日夜同店に来た客の篠原脩から、本件事件に関連して同僚の被告人が同日午前零時か一時頃高橋三好方に帰つて来たのだが変だといつていたのを聞いた旨の聞込みを得たので、情報があれば王子署に連絡して貰い度い旨依頼したこと、鈴木貞夫は、その後の同年二月五日夜偶々被告人が「セブンハート」に飲酒に来たので、右のような経過から翌二月六日王子署に電話し、捜査員が「セブンハート」におもむき、山田滋子から、篠原脩のもらしていた言葉を直接聞いたうえ、同女が記憶していた篠原脩の住込み先である高橋三好方の電話番号を手がかりに、篠原脩が被告人とともに高橋三好方に住込んでいることを探知し、更に篠原脩に直接会つたところ、同人は、はつきり時計を見ていないけれども、被告人が同年一月二五日午前一時頃帰つて来たような気がする、その時被告人は窓から部屋の中に入つて来た、との聞込みをえたので、被告人に対する嫌疑を深め、当時被告人が横浜の朝日運輸株式会社の工事のため同会社寮に泊り込みで仕事をしていたので、同作業場の責任者原進吾に被告人の監視方を依頼し、他方被告人が事件当夜の同年一月二四日に犯行現場付近の飲食店に出入していないかどうか聞込みを続けたところ、同夜「ハンター」に被告人が出入していること、被告人の飲食につき同日付伝票が二枚あり、そのことから、被告人が同夜「ハンター」で飲酒したうえ、同日午後一〇時三〇分ないし四〇分頃一旦そこを出た後、同日午後一一時二〇分頃再び同店に入つて再度飲食したことが判明したこと、被告人が右のように「ハンター」を出てもどつて来た間の時間がちようど犯行時間帯と推定していた時間と一部合致することなどから、事件当日の挙動不審者として被告人に対する嫌疑がますます強くなつたが、嫌疑を裏付ける確実な具体的証拠は何等収集しえなかつたことがそれぞれ認められる。

(2)  <証拠省略>を総合すると、被告人は、昭和四〇年六月頃から同都北区東十条四丁目九番地バー「レインボー」(同店の営業名義人は三崎アサであるが、実質上の営業主は原口広司である。)に出入しているうちに、原口広司の妻原口悦子が被告人と同じ九州の出身であることなどからしだいに同店の人達とも親しくなり、住込み先の高橋三好方の住所、電話番号を明らかにしてつけで飲食するようになつたが、昭和四〇年九月二五日から同年一〇月二九日までの八回分については未払が累積し、総額約一〇、二〇〇円に達し、催促の電話を受けたけれども、当初は翌日あるいは近日中に支払うと返事したが、その後は連絡を取らなかつたこと、原口広司らは被告人が口実を作つて支払を怠つているものとしてだまされたとの感を抱いたことがあつたものの、法的手段に訴えるまでのことは考えずそのまま放置していたこと、前記のように捜査当局は、本件につき被告人に対し嫌疑を抱くに至つたけれども、嫌疑を裏付ける確実な具体的証拠は何等収集しえなかつたにかかわらず、被告人の飲食代金未払を理由とする詐欺事件により被告人を逮捕したうえ、本件につき捜査することも止むをえないとして、犯行現場付近一帯の飲食店に被告人の写真を見せて、被告人の飲食代金未払がないかどうかの聞込みを始めたところ、昭和四一年二月一一日頃「レインボー」のバーテン滝沢渉から被告人の飲食代金未払分があるとの回答を得たので、滝沢渉に対し、本件の犯人が被告人であることは間違いないので、飲食代金未払の件を詐欺事件として被告人を別件逮捕したいから捜査に協力して被害届を出して貰い度い、と告げたこと、滝沢渉は原口広司に対し捜査官の依頼の趣旨を電話連絡したところ、当初原口広司は消極的態度を示したが、滝沢渉から風俗営業を営んでいる関係上警察に協力しないで反感を受けても困るので、一応被害届を出した方がよいのではないかとの進言もあつて、結局これに応ずることにしたこと、そこで、捜査当局は、同年二月一二日「レインボー」の営業名義人三崎アサから、昭和四〇年九月二五日から同年一〇月二九日までの間八回に亘る合計一〇、二〇〇円相当の飲食詐欺の被害屈を、滝沢渉から供述調書をとり、翌一三日高橋光子からも供述調書をとり、被告人を詐欺事件で逮捕するための証拠を収集したうえ、昭和四一年二月一五日午前七時頃、被告人の仕事先であり当時住込んでいた前記の横浜市中区山下町所在の朝日運輸株式会社の寮におもむき、被告人を王子署に任意同行し、同日午後一〇時頃までの間、司法警察員青木光三郎が取調官となつて、本件については事件名及び黙秘権は一切告げないまま(同年同月一八日までの取調についても同様)、被告人の同年一月二四日の足どりにつき取り調べたが、被告人が「ハンター」を中座したことを明らかにしなかつたことから、故意に事実を隠しているものと疑い、かつまた事件当日のアリバイについて取調官を納得させるだけの説明をなし得なかつたことから、同日午後七時頃予ねて用意していた三崎アサの被害届、滝沢渉の司法警察員に対する供述調書、司法警察員作成の捜査報告書(詐欺事件に関するもの)を資料として、被告人の「レインボー」における昭和四〇年一〇月一二日頃から同月二九日までの四回合計五、九五〇円の飲食詐欺を被疑事実とし、職業、住居は判明していたにもかかわらず、職業不詳(元大工)、住居不詳(元北区神谷一の六高橋方)として逮捕状の発付を請求し、同日東京簡易裁判所よりその発付を受け、午後一一時その執行をなしたこと、その後後記認定のとおり事件当日である昭和四一年一月二四日の被告人の足取りにつき厳しく追求した結果、同年二月一八日に至り、被告人の本件犯行についての自白を得て、これを録取した自白調書に基づき、翌一九日本件強盗強姦、強盗殺人事件につき逮捕状を得、同月二二日その執行をなしたことをそれぞれ認めることができる。

五、犯人特定に関する物的証拠の存否

1  足跡について

検証調書、捜査報告書、押収してあるスカート一枚(前同押号の三)によると、東十条郵便局中庭植込内の屍体と東十条バス通り間に五個の足跡(1号足跡と2号足跡間約八〇センチ、2号足跡と3号足跡間約三〇センチ、3号足跡と4号足跡間約四〇センチ、4号足跡と5号足跡間約四〇センチ)が存在していること、屍体の下半身に紺とグリーンの一松模様のトツパーコートが、上半身及び顔面にベージユ色のスカートが掛けられているところ、右コートの右肩の部分に著明な足跡一個、裏側裾の部分に靴型の足跡が、スカートの裾の部分に足跡一個が各付着していることが認められるところ、弁護人は、右足跡はいずれも犯人の残した足跡一個と思料されるが、右足跡は被告人の靴によるものではないから、被告人は犯人ではない、と主張し、検察官は、現場から採取された足跡は警察官西田利美の靴によるものである、と主張するので、以下右足跡がいかなる時期に、何人によつて付されたものであるかについて検討する。

捜査報告書、検証調書によれば、東十条郵便局長遠山泰司より変死体発見の届出を受けた東十条派出所の岩崎巡査は、昭和四一年一月二五日午前七時二〇分頃一一〇番で王子署に報告し、同署勤務の八木巡査部長ほか数名の警察官が同日午前七時二七分頃本件犯行現場である東十条郵便局に到着するまで現場保存にあたつていたこと、八木巡査部長らは、ロープ、木材等により交通遮断を実施させ現場保存を命じたうえ、東十条郵便局中庭植込内の屍体、足跡等に手を触れず、植込み内にも立入らないまま初動捜査班が到着して捜査上植込内に立入る際、右足跡を指示区別したというのであり、また同日午前九時から午後一時までの間実施された検証において、前記認定の足跡八個所に注目し、これを写真に収めたことが認められ、検証調書添付の写真にその形状、位置等を見ることができる。

被告人の当公判廷における供述、当裁判所の証人高橋光子に対する尋問調書によれば、被告人は、当時一足しか皮靴を所有せず、同年一月二四、二五の両日被告人は右皮靴をはいていたことが認められる。

警視庁科学検査所警視庁巡査平林良次作成の同年三月三一日付鑑定書は、犯行現場の郵便局中庭の植込内から石こうで採取した五個の足跡は、靴痕であり踵部がゴム底製様で、同部にやや類似性を有する商標個所があり、同部の後尾側付近にやや孤を描いたような筋模様があるのが特徴であるとされ、1号足跡は全長三〇センチ前後(文数一一文前後)、踵部上の縁横巾六・六センチ以上(同中程の縦の長さ七・六センチ前後)、足蹠部巾一一センチ前後と測定されるところ、被告人の黒色革製短靴は踵部に商標個所及び孤状の筋模様はなく、同部の後尾外側付近に三角形様の釘が一個打つてあり、全長二八・五センチ前後(文数一〇・七文位)、踵部上縁の横巾は約六・七センチ(同中程の縦の長さ約七センチ)、足蹠部巾九・八センチ前後と測定され、採取された足跡五個とは共通性がみられないので符合しない、採取された足跡中1号足跡は西田利美使用の短靴の底型紋様によく類似し、その他の足跡は同短靴の底型紋様にやや類似する旨鑑定している。なお、コート、スカートに付着した足跡について鑑定した証拠はない。従つて、コート、スカートに付着した足跡と被告人との結びつきはなんら存在しない。また、西田利美の犯行現場における行動等についてはこれをつまびらかにする証拠は全くない。

ところで、右認定事実から考えられることは、(1) そもそも犯人は植込内を通らず、従つて植込内に犯人の足跡はなかつたのに、捜査上植込内に入つた警察官西田利美の足跡を犯人の足跡と誤解して採取した、(2) 植込内の足跡の全部もしくは一部は犯人の足跡であり、被告人の足跡とはいずれも一致しないから、被告人は犯人ではない、(3) 当初植込内に犯人の足跡があつたのであるが、その後捜査上植込内に立入つた捜査官が不注意にも現場を荒らし、鑑識班に対し警察官西田利美の足跡五個もしくはその一部を犯人の足跡であると誤つて指示し、それに基づき五個の足跡の写真撮影、足跡採取がなされた、との三つの場合であろう。検証調書、当裁判所の検証調書によれば、東十条郵便局中庭には、桜、棕櫚、バラ、ラン科植物等が植えられており、通常、人が足を踏み入れるような場所ではないことが明らかであり、捜査報告書、遠山泰司の司法警察員に対する供述調書、大野稔の検察官に対する供述調書によれば、遠山泰司が屍体を発見するまでの間、本件現場付近を通つたのは新聞配達人大野稔と牛乳配達人のみであると推測され、しかも大野稔は当日ビニール製裏面スポンジの草履をはいており、かつ植込内には足を踏み入れず、遠山泰司方玄関先にあつた女の屍体の足許をよけるようにして玄関左側の戸の隙間から朝刊を差し込んで行つたこと、牛乳箱は遠山泰司方家屋の南側に設置されてあり、牛乳配達人が牛乳配達のため植込内に入る可能性はほとんどないこと、遠山泰司も植込内には立入つていないことがそれぞれ認められるのであつて、前記認定の現場保存状況を併せ考えると、当初植込内に発見された足跡は犯人のものであると考えることもできるのである。しかし、右(1) の場合のように、犯人が植込内を通らなかつた可能性もあるので、これを犯人の足跡と断定することはできず、また、植込内を通らないで、本件犯行が行われたものとすれば、足跡が被告人の足跡と一致しなかつたからといつて、直ちに被告人を犯人でないと断定することもできないのである。警察官西田利美の足跡によく類似しあるいはやや類似するとされている五個の足跡がいかなる時期にどうして植込内に印されたかについては、本件証拠上明確になし得ないのであるけれども、前記(3) の場合の可能性もあり、犯行現場に存し、かつ、採取された足跡五個のうち1号足跡一個が警察官西田利美使用の短靴の底型紋様によく類似し、その他の足跡は同短靴の底型紋様にやや類似するというのであるから、これら足跡が犯人の足跡であるという可能性は少なく、また、右足跡五個がいずれも被告人の靴によつて印されたものとはいえないということは、右足跡が被告人とはなんらの結びつきがないことを意味する。

2  血液、精液の型について

弁護人は、被害者着用のシミーズには人血付着はなく精液しか付着していないところ、その精液の血液型はAB型であり、他方被告人の血液型はA型であるから、被告人は犯人でない、と主張し、検察官は、被害者の屍体から精液型は検出されなかった、と反論する。

山沢鑑定書、山沢吉平の検察官に対する昭和四一年三月四日付供述調書(二枚のもの)では、被害者は月経初期で、血液型はAB-N型、その唾液中にA、B、O型質を認めたので、分泌型(S)であり、膣内からかなり多数の精液が検出されたが、被害者の血液型がAB-N型の分泌型(S)であるため、精液の血液型は被害者の膣液の血液型に被われて判定不可能と鑑定され、警視庁科学検査所警視庁技術吏員菊池哲作成の同年二月二八日付被告人の唾液の鑑定書(以下菊池第一鑑定書と略称する。)によれば、被告人の血液型は分泌型A型と鑑定され、検証調書、菊池哲作成の同年二月二八日付血液及び精液の鑑定書(以下菊池第二鑑定書と略称する。)及び菊池哲作成の同年三月一〇日付鑑定書(以下菊池第三鑑定書と略称する。)、司法警察員作成の鑑定嘱託書謄本によれば、(1) 被害者の血液型はAB型と判定され、かつ分泌型であると思料されるが、断定することはできない。(2) 被害者の膣内液は人血精液混入AB型と判定され、被害者の膣液のほか血液も混入しているので、精液の血液型の判定は困難である。被害者のズロース、スカート、シミーズについては、血液の予備検査としてペンチジン試験、人血検査として抗人血色素沈降素法、精液の予備検査として酸性フオスターゼ法、本試験としてコリンストツキス氏塗抹標本試験、血液型検査として抗A・抗Bによる凝集素吸着試験を行つたところ、(3) 被害者のズロース及びシミーズには精液が付着しており、その部位の血液型はAB型反応を呈したが、その部位には血液も付着しているほか被害者の膣液の付着も考えられるので、精液の血液型を判定することは困難である、ズロースについては人血精液混入AB型、シミーズについて精液血液様のもの混入AB型と判定(シミーズについては、ペンチジン反応において陽性を示したが、抗人血色素沈降素法による人血反応において反応を示さない。)、(4) 被害者のスカートには血液が付着しており、その血液型はAB型反応を呈したが、精液も僅かに混入しているので(精液人血混入AB型と判定)、血痕の血液型をAB型と断定するのは危険である、(5) 犯行現場の屍体右上腕部から約五センチ離れた地面上に血液付着のチリ紙一個が丸められて落ちており、人血以外に体液と思われるものが混入し、その血液型は人血付着AB型と判定されたが、体液等の混入を考慮するとAB型と断定するのは危険である、と鑑定されている。

ところで、右鑑定に使用されたペンチジン検査法は、甚だ鋭敏で血痕予備検査法としてすぐれているが、非特異性で、無機化合物、果汁、植物汁によつても陽性反応を呈するので、この試験法によつて陽性であつても血液と断定することはできない。そして、本試験としての抗人血色素沈降素法(抗人ヘモグロビン沈降素法)による場合には、人血以外の人蛋白(人の汗、垢、精液、体液)や動物血には反応しないので、これによつて陽性の成績を得た場合には、直ちに検体が血液であつて、しかも、人血であると断定して差支えないとされ、この方法の最大の特徴の一つとして肉眼で不明のような稀釈された血痕からも証明できるとされ、普通一、〇〇〇倍以上一〇、〇〇〇倍に稀釈された血痕浸出液が用いられ、かえつてこの方が強くはつきり反応が認められるということであり、沈降素価の範囲内の濃度の浸出液に対して反応陰性の場合は人血でないといえるとされる(百瀬隆人・法医学鑑識七一頁。友永得郎分担執筆・金原出版株式会社刊「法医学」二八一―二八二頁。)。従つて、被害者のシミーズについて、本試験たる抗人血色素沈降素法には反応を示さなかつた点は前記認定のとおりであるから、シミーズの検体部分には人血付着はないとも言える(もつとも古畑種基博士は、抗人血清沈降素法についてではあるが、人血であつても非常に変化を受けたときには反応を起さぬことがあるので、反応がないときにも「人血でない」と断じてはならぬのであつて、「人血なることを証明し得なかつた」という表現を用いるべきである((法医学二二〇頁))、とされている、のも留意すべきであろう。)。そうして、被害者は月経初期で、膣内液について人血反応に陽性を示し、ズロース、スカート、チリ紙にも全部人血反応で陽性を示し、かつ、ズロース、スカートには精液も混入しているとされ、チリ紙には体液も付着されていることは前記認定のとおりであつて、右認定事実に鑑みると、右人血反応は、被害者の月経血による可能性が強い。弁護人は、このことから膣液にはすべて人血を伴い、シミーズ付着物には人血反応がなかつたことは、すなわち膣液混入のないことを示している、と主張する。そこで、この点について考えてみると、被害者の月経血が膣内に多量に出ていて、膣液と月経血が混り合つていると仮定した場合に、人血反応がないことになれば膣液混入もないとの結論を導き出し得る可能性が強いけれども、月経血が膣内に少量にしか出ていない場合には、膣液に月経血が混入するものと、しないものができることも明らかである。検証調書によると、被害者の屍体膣口には赤褐色の血様液が付着していることが認められ、前記検体の鑑定結果にも人血精液混入AB型と鑑定されているものが多いことなどから、月経血と膣液が全部混り合つているものと仮定し、そのうえで、人血反応を示さなかつたシミーズには、膣液の付着はなく精液のみが付着していると考えることもできるのであつて、このことのみをもつてすれば、シミーズの検体部分がAB型を示したのであるから、犯人の血液型もAB型であるともいい得ないわけではないが、他面被害者は月経初期であつたと鑑定されているから、月経血が未だ膣内に多量に出ていない場合もあり得るのであつて、犯人が被害者と性交の際、陰茎の一部に月経血精液混入膣液を、また他の一部に月経血を混入しない精液混入膣液を付着させ、その後ズロース、スカートには前者を、シミーズには後者の部分を付着させたとの可能性が全くないとはいえない。もし、後者の場合であるとすると、前記認定のとおり被害者は分泌型AB型であるから、犯人の精液は被害者の分泌型膣液の影響を受け、採取された検体の血液型がAB型を示したとしても、犯人の血液型を医学的に断定することはできないことになるのである。もし、前者の場合、すなわち、犯人が性交前もしくは後に、被害者の腔液を全く付着させることなく、精液のみをシミーズに付着させたとすれば、付着精液の血液型AB型が犯人の血液型であり、被告人はA型であるから犯人ではないといえないわけではないが、これもまた可能性があるというに止まり、本件記録上これを確認するに足る証拠はない。

してみれば、本件採取にかかる血液、精液自体からは犯人のそれを特定することはできないし、いわんや、これをもつて被告人が犯人であるかどうかを断定することのできないことはいうまでもない。

3  その他

なお、本件においては、一件記録及び証拠物を検討しても、右に検討した以外に、被告人の自白調書を除き、被告人と本件強盗強姦・強盗殺人の犯罪事実とを結びつけ、もつて被告人が犯人であることを確認するに足るべき証拠、たとえば犯行現場又は兇器、遺留品、奪取後投棄した物などの証拠物に被告人の指紋、血液、精液、足跡が残されていること、被告人が賍物を所持するなどその身辺に犯行と結びつくものがあることなどを確認し得る証拠や、被告人が本件強盗強姦・強盗殺人を敢行するのを目撃したという者の供述等は何一つ見出し得ない。

六、被告人の自白調書の証拠能力

検察官は、被告人の検察官に対する供述調書は任意になされたものであると主張し、弁護人は、被告人の検察官に対する供述調書は、違法な別件逮捕及びそれに続く違法な勾留中に作成されたものであり、かつ、司法警察員の暴行・脅迫・誤導等に基づく無理な取調の影響が未だ消滅しない間に行なわれた供述を基礎としているから、任意性を欠くものである、と主張する。

捜査当局においては、当初被告人に対し、本件の強盗強姦・強盗殺人事件について逮捕できる程度の確実な具体的証拠の収集ができなかつたので、まず、詐欺事件について逮捕令状を求め、被告人の身柄を拘束したことは、前記第二の四で認定したとおりであり、証人青木光三郎(第二回)、同阿部正、同八木国丸、同山崎恒幸の各供述、詐欺事件一件記録中の裁定書、被告人の司法警察員に対する供述調書、勾留請求書、勾留状、押収してある留置人出入簿(前同押号の一五)を総合すると、詐欺事件により被告人を逮捕した日の翌二月一六日に、司法警察員小日向阿久由が詐欺の被疑事実について取調をなし、その供述調書を作成した以外、本件強盗強姦・強盗殺人事件の逮捕状が執行された同月二二日午後五時までの間その全部を本件の取調にあてたこと、その間取調のため取調官の面前にいたと認められる時間は、取寄せた留置人出入簿によると、合計六九時間一九分、詐欺事実の取調のための時間は僅かに三時間四二分程度で、その余の時間は全部本件取調のため使用されたこと、その間の同月一八日夕刻被告人が本件犯人である旨を自白するに至つたので、翌一九日午前零時四〇分にかけ供述調書二通が作成されたこと、同日青木光三郎警部は右自白調書を持参したうえ、東京地方検察庁検事山崎恒幸に、本事件につき逮捕状を請求し詐欺事件から本事件に令状を切替えるにつき相談した際、同検事より、事件の性質上もつと慎重に取調をしたうえで切替えた方がよい、といわれたが、新聞記者に感付かれているので是非切替えたい、と強く警察側の要請を述べ、結局、右令状切替えの賛同を得たうえ、あらかじめ、本件逮捕状を執行した場合の詐欺事件の勾留の釈放指揮をも受け、他方同検察庁令状課釈放係も釈放印を押捺して釈放したものとして取扱つたこと、ところが同日夜になつて、警察官らは、本件逮捕状の発付を得たが、一両日その執行をおくらせたい旨同検事に連絡して、右の釈放指揮印、釈放印を抹消させたうえ、改めて同月二二日本件逮捕状を執行し、詐欺事件の釈放をしたが、その間従前の詐欺事件の勾留を利用して本件の取調を続行したこと、同月二四日本件につき勾留が認められ、同年三月五日には更に一〇日間の勾留延長が認められ、同月一五日本件を起訴し、詐欺事件については同月二五日起訴猶予処分に付されたことをそれぞれ認めることができる。

右認定事実及び第二の四の被告人が検挙されるに至つた経緯の項において認定した事実に鑑みれば、本件においては、当初被告人に対し、本件強盗強姦・強盗殺人事件について逮捕できる程度の確実な具体的証拠の収集ができなかつたので、捜査当局は、まず、詐欺事件について逮捕令状を求めて身柄を拘束し、その逮捕、勾留の期間のほとんど大部分を本件の取調に流用して被告人から本件につき自供を得、これに基づいて本件の逮捕令状、勾留状の発付を得たもので、しかも、当初より専ら本件捜査に利用する目的のもとに、前記認定のような単なるつけの未払にすぎないとも思われるような無銭飲食詐欺事実を探し出して来て逮捕、勾留するという意図をも明白に認めることできるのであつて、いわば不当な見込捜査であり、いわゆる違法な別件逮捕、勾留に該当するものというべきである。当裁判所は、捜査当局たる司法警察員が右違法な逮捕、勾留を利用し、前記のとおり、六〇数時間の長時間にわたり、本件につき被告人を取り調べたこと、被告人の当公判廷における供述その他本件にあらわれた証拠によれば、その取調の方法にも妥当でないものがあつた疑があつたことを理由として、昭和四一年一〇月一五日の第一〇回公判において、同年二月一八日から同年三月七日までの間に作成された被告人の司法警察員に対する供述調書九通及び司法警察員作成の捜査報告書添付の被告人作成の上申書一通につき、すべて、被告人の供述の任意性につき疑があるとして却下したのである。しかし、被告人の検察官に対する供述調書三通(41・2・24調書、41・3・10調書、41・3・12調書。以下被告人の自白調書、上申書につき同様の形式で略記する。)及び裁判官に対する勾留質問調書については、警察における取調期間中又は取調終了後間もなく作成されたものであるけれども、被告人自ら、検察官からは取調時間、取調方法などにつき無理な取調はなされなかつた、と述べているし、当裁判所の取り調べたすべての証拠に徴しても、検察官、裁判官に対する各供述(自白)は、強制、拷問又は脅迫による自白、不当に長く抑留又は拘禁された後の自白その他任意にされたものでない疑のある自白のいずれにも該当するとは認められない。もつとも、被告人は、41・9・6上申書で、同年三月一〇日の取調につき、「私はこの検事なら私の云うことを聞いてくれるだろうと思つたので、私はこのような無実の罪を着せられているのです、もう一度よく調べて下さいと頼んだところ、検事は今更動揺したりしてい仕様がないなと云つて聞こうとはしなかつた。このようにして三〇分するかしないかうちに電話がかかつて来て検事は事務官に散髪に行つてくるからといつて取調室を出て一二時少し過ぎ頃帰つて来て調べ始めたが、検事にもう一度調べてくれるよう頼んでも信じてくれないので私もこうなれば仕方がない徹底的に調べて貰う方がよいと思つたので青木刑事の作つた調書通りですからといつた。」と述べ、証人山崎恒幸も、「同日の取調の冒頭に被告人が自分は真犯人ではない、あとで真犯人が出ますよと述べたので一寸驚いた。被告人が否認したり動揺したりして取調が進行しない状態になつていたところへ電話がかかり他の用件のため取調を中断して取調室を出たが部屋に戻り取調を再開したところ、今度は犯行を認めるようになつた。警察での取調特に青木光三郎警部の取調はきつかつたと訴えたこともあつた。これらのことがあつて被告人の取調には慎重を期し、同日及び同月一二日の取調とも録音テープに取調を収めた。」と供述しており、これらのことから、被告人は、一旦は検察官に自己が真犯人でないと強く主張したけれども、検察官から容易にこれを信用して貰えなかつたので、自己の主張に到底耳を借してくれないものとあきらめたことが窺われ、そのうえに、警察で自白した以上検察官に対してもそのとおり自白せざるを得ない心理的圧迫を感じたのではなかろうかということも必ずしも否定することはできないけれども、そうだからといつて、それが検察官に対する供述調書の任意性を否定するに足る事情であると認めることはできない。

七、被告人の自白調書の信用性

被告人の検察官に対する自白調書三通(勾留質問調書は単に「事実はその通り相違ありません」という簡単なものであるため内容の検討から除外する。)の内容中、検察官、弁護人間において争点となつている点及び当裁判所が逢着した重大な疑問点を中心として以下判断する。

1  本件の取調を受けるに至つた時期について

弁護人は、41・2・24調書第一項によれば、被告人は「警察で本件逮捕状が執行されるまで正面からこの事件について追求されたことはない。」とされているけれども、被告人は同年二月一五日から連日深夜まで本件について取調を受け、本件逮捕状が執行された同月二二日までに本件に関する自白調書は数通作成されており、右供述記載はこの事実に反するのみか、かかる供述記載は、詐欺事件で逮捕、勾留中、その取調の際、被告人自ら自白したことにし、詐欺による逮捕、勾留(別件逮捕)の違法性を隠蔽するため作為的になされたものである、と主張する。

41・2・24調書第一項には、「この犯行については、一昨日午後五時頃逮捕状を執行されましたが、その事実を認めたのは一七日夜八時頃からです。私はそれまで詐欺事件で調べを受け合せて二四日前後の行動についても尋ねられておりました。警察では二四日の事件の逮捕状を執行するまでは正面からその事実について追求されませんでしたが、私は詐欺事件で逮捕された当初から二四日の事件について取調べられるということを大体感付いておりました。」となつているところ、前記第二の六の被告人の自白調書の証拠能力の項において認定したとおり、警察では同年二月一五日に被告人を詐欺で逮捕して以来、同月一六日午前中詐欺事件につき被告人を取調べた以外その余の取調時間全部を本件の取調べにあて、その間司法警察員に対する同月一八日付供述調書二通と同月二一日付被告人作成の上申書添付の捜査報告書を作成し、本件逮捕状の請求にも右供述調書が資料とされたことが認められるのであつて、右供述部分が真実に反することは明らかである。検察官のもとには本件送致とともに一件記録が送られて来ているはずであり、かつ、山崎検事自身同月一九日に警察官より、被告人の自白調書をもとに別件の詐欺から本件に切替えるにつき相談を受け、その際もう少し本件につき慎重に取調べたうえで切替えるよう意見を述べたというのであるから、同月二二日以前に、本件について正面から取調べをなし、すでに自白していることは十分知つていたと認められるのであつて、右供述部分が、被告人を詐欺事件で逮捕、勾留し、その取調中たまたま被告人自ら本件につき自白したかの如くし、初めから本件捜査に利用するために別件逮捕をなしたとの別件逮捕の違法性を隠蔽するために作為されたものである、との弁護人の非難もあながち不当ともいえないのである。

2  「ハンター」を一旦出た理由について

41・2・24調書では、一月「一四日の日にヒロ子に草履等を買つてやつて一七日夜から横浜で寝泊り一四日以降始めてその晩ヒロ子に会つたのですが、ヒロ子は自分で作つた着物が間に合わなくて成人式にも行かなつたというので、私の好意も無駄になつたように思い腹が立つて、式日は前から決つているのにそんな馬鹿なことがあるかというようなことをいつてヒロ子と口喧嘩をして面白くなくなつたので看板まで居てヒロ子を送ることをやめて店を出ました。」と、41・3・10調書では「成人式に行つたのかと尋ねたら着物が間に合わなくて行かれなかつたというので、間に合わないことはなかろう。式は前から決つているのに、人が折角買つてやつたのになどと云いました。」、「私は折角草履まで買つてやつたのに成人式にも行かなかつたと聞いて癪にさわり気分を悪くしてしまい、ヒロ子もあんな性格なのでむくれて『そんなこと云つたつて仕様がない。』などといい、私は『仕様がないと云えば何でもおしまいだ。俺は今日送つて行かないからな。』といいますとヒロ子は『あつそう。』といつて他の客のところに行つてしまいました。そうして飲んでいるうちに益々面白くなくなつたので帰るといつて立上つて出かけるとヒロ子はドアーのところまでついて来て何処へ行くのと尋ねますので、横浜に帰ると云い捨てて店を出ました。」、「ヒロ子とは一五日夜もトロイカで会つたがそのときはヒロ子の連れがあつて私はその連れの女と多く話し、ヒロ子も今からアパートの隣人達が祝つてくれるので九時半までには帰らねばならぬとかいつて急いでいたので三〇分位で別れそのときは成人式に出たか出ないかまでは確かめておりませんでした。」と述べている。ところで、第二回公判調書中証人広江ヒロ子の供述記載によると、一月一五日の晩にトロイカで会つた時に被告人がせつかく草履を買つてやつたのにどうして出ないんだといつたこと、同月二四日の晩第一回目に「ハンター」に来た時にも広江ヒロ子に対し「成人式にどうして出なかつたのか。」といつたところ、広江ヒロ子は「用事があつて出なかつた。」と答え、マダムの内野貞子から「そんな話はよしなさい。」といわれてその話をやめたこと、被告人が怒つているとか、しかつたという極端なものではなかつたし、被告人がそのことで機嫌が悪いというような態度もとらなかつた、というのである。当公判廷において被告人が提出した42・8・2上申書では、一月一五日の夜喫茶店トロイカで広江ヒロ子と会い、「今日成人式に出席したのか。」とたずねたところ、「着物が間に合わず行かない。」等といい出したので、「私は、昔から成人式というのは一月一五日に決つている。そのようなことはいいわけに過ぎない。」等といい、まだ口返答するので、私は、「仕方がないとか、終つたことだから等といつて仕舞えば何事もそれまでになる。」といい、そのうちにヒロ子の友達である人が口をきいたので、そのことはそのままで終りました、というのである。以上の各供述等からすると、むしろ一月一五日にすでに成人式に出席したか否かについて被告人と広江ヒロ子との間で話題となつたが、同月二四日再度この話しがむし返えされたと推認する方が自然であり、また右程度の言葉のやりとりと、41・2・24調書、41・3・10調書でも、「ハンター」を出てから東十条駅階段途中まで上つたところで、久し振りに「ハンター」に来たので折角だから広江ヒロ子を送つてやろうかな、と思い直して引返した、というのであるから、被告人が広江ヒロ子との言葉のやりとりで気分を悪くしたことがあつても、そのことで非常に不機嫌になつたとか、これが本件犯行の動機に結びつくとか、本件犯行を起しやすい不安定な心理状態を作り出したものとまでは認定しえない。

3  朝日寿司屋開店の有無について

41・3・10調書では、「ハンター」を第一回目に出て犯行現場付近に至る途中、「朝日寿司のある十字路に出ましたが、寿司屋はいつも一時半から二時頃まで店を開けているのでその晩もまだ店はやつていたように思います。」となつているけれども、朝日寿司から約二〇メートル余り離れた東十条日本館に住込勤務する増尾喜一は、検察官に対する供述調書で、事件当夜は、「朝日寿司が休みで、そこの提燈もなく付近の商店も九時頃から店を閉めて通りは案外暗くなつておりました。」と述べており、被告人の右供述部分は事実に基づくものではなく単なる推測にすぎないと考えられるし、少なくとも、朝日寿司が同年一月二四日午後一一時すぎ頃まで開店していたとの裏付証拠はない。

4  発見当時の被害者の状況について

41・2・24調書第三項では、「東十条の映画館の手前辺りで先に歩いている被害者の女を見かけました。」と、41・3・10調書第九項では、「角田金物屋の前まで来たとき郵便局の手前の古本屋とふとん屋の間あたりの道路脇を七環方向に向つて普通よりややゆつくりした足取りで歩いて行くオーバーを着た女の後姿を見かけました。」となつている。しかし、山沢鑑定書によれば、被害者は死亡当時高度酩酊の状態にあつたと認められ(血液中〇・二一四%のアルコール検出)、前記第二の一の1及び二の被害者の一月二四日の行動の項において認定したように、被害者の居住していたアパートは東十条日本館の裏手にあるのに、被害者は同日午後一〇時頃から同一一時五分頃までの一時間余りの間東十条郵便局前バス通りを僅か一一メートル四方位の範囲しか移動できず、しかも、多数の目撃者は、被害者が宮崎貸本屋の前でしやがみ込んでいるところ、高田方の軒下のシヤツターに寄りかかつたり、うずくまつたりして嘔吐しているところ、東十条郵便局南側木戸の左側(信濃屋ふとん店との境)にあつた空箱に俯伏せたり嘔吐したりしているのを目撃しているだけであつて、被害者が高田側から信濃屋ふとん店側に東十条バス通りを横断するのを目撃したのは行田敏夫のみであり、しかも、同人が目撃した時の被害者の歩行状況は、酩酊者がよくするように、前に行つたり後ろにもどつたりする千鳥足で、一見して酩酊していることが判る状態であつた、というのであつて、被害者は高度酩酊の状態にあつて、通常の歩行はほとんど不可能の状態にあつたことが認められ、被害者を目撃した者すべてが、被害者が一見してひどく酔払つていることに気付いているにかかわらず、被告人の自白調書は、本件被害者の高度酩酊という極めて特徴的な状態に全く触れていない点で重大な疑問に逢着するのである。

また、証人宮村茂の供述、磯野太郎の司法警察員に対する供述調書、検証調書によれば、被害者は、同日午後一〇時四五分すぎ頃から午後一一時五分頃までの間、東十条郵便局南側木戸の左側にあつた木箱に俯伏せの状態のままでいたことが認められる。右41・3・10調書によれば、被告人は、東十条郵便局手前の古本屋と信濃屋ふとん店の間あたりの道路脇を七環の方向に向つて歩行中の被害者を見た、とされているけれども、もし、事実が右供述調書のとおりであるとするならば、同日午後一一時五分頃以降犯行着手前に被害者が右木箱のあつたところから王子側に戻つた後、引返して七環方向に歩いていたということになるわけであるが、これを裏付けるに足る証拠はないし、さればといつてこれを全く否定し去る証拠もないけれども、前記認定の酩酊状態に照らせばその可能性は少ないものといいうる。

5  犯行の動機について

検察官は、被告人は遊興にふけり金銭に窮していたもので、本件の直接の動機は金員強取にあつたと主張し、その理由として、被告人の昭和四一年一月の給料支給日は一五日と三一日であつたところ、前月の前借分及び正月休み等のため一五日には支給分がなく、三一日には一四、八〇〇円の支給を受くべきところ一〇、〇〇〇円のみ受領し、残額四、八〇〇円は同年二月六日に支給されている、その間被告人は高橋三好、原進吾から多数回に亘つて金銭を借用しているところ、それは生活が窮迫していたために他ならない、被告人は、金銭に窮していながら「ハンター」、「ベラミー」等のバーに足繁く出入して浪費の生活を送つていたのであつて、かような生活態度が本件犯行の原因となつており、金員強取こそ本件の直接の動機であつた、最初代金の一部二、〇〇〇円のみ支払い全額支払わずに「ハンター」を出たのは、全額支払うに足るだけの所持金がなかつたためと推量されるところ、同夜「ハンター」に再度行つたときには残金一、一五〇円を支払つているのであつて、これは他から入手した金員を支払に充てたとみるのが相当である、と主張する。これに対し、弁護人は、被告人の昭和四一年一月中の収入が少ないのは正月休みのある一五日の給料のみであり、三一日の給料は普通であつたし、高橋三好からの借金は給料支給日に清算済であり前借分を差引いても三一日には一四、八〇〇円の手取り収入があつた、高橋三好、原進吾からの借金の回数が多かつたといつても、それは生活費に困窮したためではなく、「ハンター」での飲食代、広江ヒロ子への成人祝の品物の購入費、交際費、同女に貸与するための金員、横浜での生活費、東京の遊興費として借用したもので、被告人は支出が予定されるときは躊躇なく事前に親方や同僚から必要なだけ借金し、一人で街を歩くときは必要なだけの現金を常に携帯して居り、咄嗟に金員強取を思いつく程金銭に困つていた事実はない、同年一月二四日の夜被告人が「ハンター」に入つた時は、六、〇〇〇円余の所持金を有し、最初に「ハンター」を出る時二、〇〇〇円を支払い、それでも四、〇〇〇円余りの現金を所持していたのである、バー「ハンター」を一旦出る時飲食代金三、一五〇円のうち二、〇〇〇円しか支払わなかつたのは、今後の横浜での生活費を考えつけがきくためであつて、所持金がなかつたわけではないと主張する。

(1)  被告人の当時の経済的事情

被告人が昭和三九年八月頃から高橋三好のもとで住込み大工として働くようになり、当初日給一、七〇〇円であつたが、同四〇年九月頃から日給一、八〇〇円を得ていたことは前記第二の三で認定したとおりであり、これに証人高橋三好の供述、当裁判所の証人高橋光子に対する尋問調書によると、被告人は、高橋三好方で、食費として一食一〇〇円(実際に食事をした分についてのみ差引)を差引かれ、手取り月額収入三五、〇〇〇円ないし四〇、〇〇〇円を得ていたこと、オートバイを買つたこともあつて同年秋頃から前借が多くなり、月平均二回、金額一回二、〇〇〇円ないし三、〇〇〇円程度(被告人の母が上京した時のみ五〇、〇〇〇円借用。同年中に清算済。)前借するようになつたこと、昭和四一年一月一五日の給料支給日には五日までの正月休みと前借分差引のため一銭も支給を受けられなかつたこと、同月三一日には高橋三好からの前借分を差引き一四、八〇〇円の支給を受けられるべきところ、一〇、〇〇〇円のみ受領し、残額四、八〇〇円は二月六日に支給されたことを認めることができる、41・3・10調書、41・8・2上申書、当裁判所の証人高橋光子に対する尋問調書、証人原進吾の供述、第二回公判調書中証人広江ヒロ子の供述記載、押収してある常備自由日記(前同押号の一六)を総合すると、被告人の事件当日までの金銭出入関係中明瞭なものは、つぎのとおりである。

表<省略>

合計 収入 二四、〇〇〇円、支出 一二、二四〇円、 残額 一一、七六〇円

証人原進吾は、横浜の寮での仕事は現場で寝泊りして仕事をしていたので宿泊代は不要で、食事に一日三五〇円位支出していたが、自分が被告人を使用している身でもあり、また金も所持していたので、被告人の食事代をも含めて一月二五日頃まではほとんど自分が一括して支出していた、同月一七日から二八日までの間食堂で二、三回ビールを一人一本位宛飲酒し、その他煙草、風呂銭程度使用したのみでバーに行つたことも遊びに金を使用したこともない、と述べ、被告人は41・8・2上申書で(その金銭出入表は記憶したもののみを記載したものであつて、正確なものでないことは自認しているので、そのことを考慮のうえで資料とする。)、一月一七日からの収支について、高橋光子から泊り込みで横浜に仕事に行くための生活費として五、〇〇〇円を前借したが、ほとんど原進吾が生活費を出し、自分が出したものは全部で一、〇〇〇円位しか出していない、その他にパチンコに三、四回行き一回平均三〇〇円位を費消し、安田酒店で二、三回コツプ酒(一回一五〇円程度のもの)を立飲みしたことがある程度である、と述べ、当公判廷において、二日にハイライト一箱の割合で吸つている、と述べている。以上の証人原進吾の供述と41・8・2上申書に金銭出入関係中明瞭なものを併せ考えると、一月一七日から二四日「ハンター」に入るまでの収支計算は、収入合計一〇、〇〇〇円、支出は交通費九〇〇円、生活費一、〇〇〇円(全部負担したとしても三五〇×八=二、八〇〇円)、パチンコ代九〇〇円ないし一、二〇〇円、酒代三五〇円ないし四五〇円、煙草代二八〇円、その他に風呂代、雑費等ということになるから、「ハンター」に入る時は六、〇〇〇円弱程度の金を所持していたことに計算上はなる。

ところが41・3・10調書では、被告人は、「横浜では一七日から泊込みで仕事をしたのですが、割合よく食べたので一食が一五〇円から二〇〇円位につき、また夜酒屋で立ち飲みしたり夜食を食べに出たりしたので一日に五〇〇円は使つています。一月二二日に毛布を取りに戻つた時は、原から借りた金と合わせて所持金は三、五〇〇円、三、六〇〇円位持つていたと思う。その晩ベラミーに飲みに行きましたが、代金を払つたかどうかよく記憶していない。私としてはその時飲み代を払つたような記憶が強い。」、「一月二三日朝また泊込みで行くので高橋さんの奥さんから三、〇〇〇円借りて行きました。」と述べているところ、証人梅山茂子の供述によれば、被告人は一月二二日の晩「ベラミー」で飲食した代金は当日支払をせずつけにして同月三一日に支払つたことが認められ、また証人山田滋子の供述、第二回公判調書中証人広江ヒロ子の供述記載によると、同月二二日被告人が「ハンター」、「セブンハート」に行つたことはないことが明白であり、被告人の右供述調書が真実を述べているものとするならば、同月二三日、二四日の交通費、生活費、酒代、パチンコ代その他雑費を考慮したとしたとしても、多額な出費が右両日にない限り、同月二四日「ハンター」に入る際に被告人は五、〇〇〇円程度の金は少なくとも所持していたものと認められるのであつて、この点は犯行当時の被告人の金銭所持額を考えるにおいて十分留意されねばならない。

また、被告人の同年一月中の借金の回数が多かつたことは右認定のとおりであるけれども、その使途も右認定事実より推察すれば被告人が「ハンター」のホステス広江ヒロ子に思慕の情を抱いていたこともあつて、同女との交際関係で出費がかさんだもので、遊興にふけつて生活が乱れていたというほどの事情ではないし、バー等飲食店に通うことも少なくなく、たしかに同月二四日の「ハンター」における合計四、〇五〇円相当の飲食をなしたことなど、決して少額の飲食費とは言えないけれども、大工という職業を持つているものとして飲酒の機会も少なくないこと、好意を寄せている広江ヒロ子がバー「ハンター」のホステスであること、被告人が同月一五日以来同女と会わず同月二二日久し振りで同女に会うつもりで「ハンター」に行つたところ二三日まで休業との張紙を見て、同月二四日わざわざ横浜から出かけて「ハンター」に来たことも、被告人が同日相当長時間「ハンター」にいてかなりの額の飲食をしたことも、被告人と同女との特殊の関係よりみれば首肯し得るのである。証人高橋三好、同原進吾の各供述、当裁判所の証人高橋光子に対する尋問調書によれば、給料の範囲内であれば親方の高橋三好から容易に前借し得たし、高橋三好や同人の妻光子、同僚の原進吾から借金を拒絶されたこともないこと、被告人は金員の必要がある場合には借金の回数等にあまり気にも止めず躊躇なく借金の申出をなしていることなどが認められるのであつて、被告人が金銭的に余裕があつたとはいえないけれども、犯罪を犯してまでも金員を得たいというような客観的、主観的状況にあつたとは認め難いのである。

(2)  「ハンター」を初回出る際飲食代金中一部のみしか支払わなかつた理由

被告人は、41・2・24調書では、「その晩の所持金は三、〇〇〇円余で、ハンターでの飲み代はやはりそれ位で全部仏うと所持金がなくなつて横浜に行くのに困るので、内払いして店を出た記憶があります。」、「一旦『ハンター』を出て東十条駅まで行つて引き返し、所持金は一、〇〇〇円足らずの細かい金で飲み代も足りないので、また高橋方に戻ろうかと思つたりしながら歩いていました。」と、41・3・10調書では、「いつものようにタクシーで桜木町に出ました。タクシー代は九〇円で手持の所持金は、三、〇〇〇円と細かい金が何百円かあつたと思います。桜木町駅から京浜東北線に乗り東十条駅に降りました。その料金は一二〇円であります。」と、41・3・12調書では、二度目に「ハンター」に入つた時、「支払の方は最初店に入つた時二、〇〇〇円を一、〇〇〇円札で出し、前に飲んだ残りの一、〇〇〇円余りの代金を支払い、三、四百円位の釣銭を貰いましたが、あるいは一、〇〇〇円札二枚でなくて、一、〇〇〇札と五〇〇円札であつたかも知れません。」、「その晩一度ハンターを出るときに内金二、〇〇〇円を支払つて残りの所持金は一、〇〇〇円札一枚と小銭が九〇〇円位あつたと思う、それで二度目に店に入つた時一、〇〇〇円余り支払つたので、取つた三、〇〇〇円と合せて所持金は一、〇〇〇円札で確か三枚と小銭が五、六百円残つていたように思います。」となつて、所持金についての供述が変つて来ている。ところで、41・2・24の調書のとおりの事実とすれば、検察官の主張のとおり他より金員を入手しない以上二回目に「ハンター」に入つた際一、一五〇円の支払はなし得ないこと明らかであるけれども、その余の調書によれば「ハンター」を最初出る時にも飲食代金合計三、一五〇円を支払えるだけの金銭を所持していたし、従つて他から入手しなくても全額支払可能であつたことになり、全額支払わなかつた理由は、第二回公判調書中広江ヒロ子の供述記載によれば、被告人が初回店を出る時、「横浜に帰る。」といつていたことが認められ、41・2・24調書の、全部支払うと横浜に行くのに困るので内払いした、と述べている趣旨を併せ考えると、当初「ハンター」を出る時には横浜に帰る考えで横浜での出費を考えたうえ内払をしたものと推認される。検察官は支払えるだけの金を所持しながら支払わないということに疑念を抱いており、一般的にはその疑ももつともであるけれども、被告人に関する限り、前記認定のとおり被告人は同月二二日東京に出るため原進吾から二、〇〇〇円借用して金を所持していながら、「ベラミー」での飲食代はつけにしたまま同日支払わなかつたこと、同月二四日の第二回目の飲食代金九〇〇円についても同様つけにしていることが認められ、つけのできるところは全部もしくはその一部をつけにしたにすぎず、飲食代金を飲食当日支払わなかつたことと被告人が金を所持しなかつたこととは関係がないともいいうるのである。

なお、41・3・12調書には、再度「店に入つて直ぐ第一回の残金を払つたのは金が入つたことと飲み易いことからであります。」とあり、「ハンター」に入つて直ぐ自から進んで第一回の飲食残代金を支払つた趣旨のことを供述しているけれども、第二回公判調書中証人広江ヒロ子、同内野常吉の各供述記載によると、被告人が再度「ハンター」に入つて来て酒を注文した際、マスターの内野常吉は広江ヒロ子に対し、貸しがたまるからあまり酒を飲ませない方がよいという意味を手指で合図したところ、広江ヒロ子は初回の残代金の催促を指示する合図と誤解して、被告人に初回の未払飲食代金一、一五〇円の支払方を催促したため、被告人もこれに応じ一、〇〇〇円札、五〇〇円札各一枚を出して支払つたことが認められるのであつて、被告人の右供述部分は事実と多少異なるのである。

6  殺害及び姦淫行為の模様について

(1)  強姦の意思を生じたときの模様

検察官は、冒頭陳述において、被告人は、被害者を郵便局庭内の暗がりに引きずり込んだ際、同女の体臭により俄かに劣情を催し、同女を姦淫しようという意思が生じた、とする。41・2・24調書、41・3・10調書によると、被告人は、付近には人通りがほとんどなく、薄暗い場所であつたので、急に被害者を脅迫して飲み代を取ろうという気持が起り、被害者を郵便局中庭に引きずり込んだところ、そこで急に強姦の意思を生じた、とし、強姦の意思を生じた理由につき、41・2・24調書では、「引きずり込むと直ぐ前から抱きついて軽くキスしました。余り抵抗しないのでもう一度キスしましたが、そうしているうちに急に興奮して強姦したくなりました。」と、41・3・10調書には、「引張り込むとき抵抗をせず化粧の臭がしていて急に強姦しようという気が起つて来ました。」と、そして二度接吻した、となつている。しかし、前記第二の二被害者の昭和四一年一月二四日の行動の項で認定したとおり、当時被害者は高度酩酊状況にあり、東十条バス通りの三個所に嘔吐したことが明らかであり、かつ、時間的、場所的関係からみて、被害者が口をゆすいだ可能性も全くないのであつて、かりに被害者発見当時に被害者が泥酔していることが判らなかつたとしても、少なくとも被害者を郵便局中庭内に引きずり込み、接吻する等の行為に及んだ際には、被害者の飲酒による悪口臭などに当然気付く状態にあつたのに、被害者のかかる特徴的な状態に全く触れていない点で、前記4被害者発見当時の状況で述べたと同様の重大な疑問を抱かざるを得ないのである。

(2)  被害者の首を扼した原因

検察官は、冒頭陳述において、被告人は当初から殺意を有していたものではなく、被害者を姦淫しようと、同女に抱きついて軽く接吻をし、更に二度目の接吻をすると、同女は「キヤー」と悲鳴をあげたので、咄嗟に殺意を起し左手で口を塞ぎ、前首を絞めつけた、と主張している。被告人は被害者の首を扼した原因、きつかけについて、41・2・24調書で、「声を出されそうに思われたので私はあわてて多分左手で女の口を塞ぎ、右手でいきなり女の首を絞めました。」と述べたが、41・3・10調書では、「立つたまま二度目のキツスをかわすと女はその場にしやがみ込むような姿勢になり、かなり大きな声で『キヤアー』と叫んだので、咄嗟に左手で口を塞ぎ右手で前首を絞めた。」と変り、更に41・3・12調書では、「私が事件の晩被害者の女を見かけたとき脅かして金を取ろうという考えを起したほかに、半分はからかつてみようという気持もありました。それで大きい声でも立てられたら逃げる心算でありましたが、案外そんなこともなかつたので却つてこんなことになつてしまいました。」と変り、被害者から大声をあげられたか否かについては供述自体変転している。殺人事件において、事前には何等殺意がなく咄嗟に殺意行為に出たとされている本件のような場合には、殺害行為に出るに至つた発端は極めて重要な点であるのに、この前後の供述には余りにも著しい差があつて、犯行の細部については記憶違いも十分ありうることであるにしても、かような点に思い違いがあつたとは到底考えられないところであるし、被告人の自白を真実なものと認める前提に立つならば、この供述の変化は理解し難いところだといわざるを得ない。

そうして、また、証人田中哲治の供述、遠山玲子の司法警察員に対する供述調書、検証調書(添付図面及び写真3・4・5)によれば、東十条郵便局棟続きの家屋に居住する遠山玲子は、一月二四日午後九時半頃に帰宅してから午後一二時頃に就寝するまで叫声は聞いておらず、階下郵便局事務所内に入れてある飼犬が二、三回吠えた記憶がある程度で、殊更変つた物音や人声等には気付かなかつたこと、同郵便局南隣りの信濃屋ふとん店の二階は南側と北側に二部屋があり、各部屋には東西に窓があり、北側の部屋の西側窓から犯行現場まで直線距離にして数メートルであるところ、同ふとん店に居住する高校生田中哲治は、同日午後一一時頃まで二階南側の部屋で家族とともにテレビを見て、その後家族の布団を敷いたりした後一一時半頃から二階北側の部屋(郵便局側)で試験勉強のため翌二五日午前四時頃まで起きていたが、女の悲鳴を聞いたようなことはなかつた、というのであり、犯行現場付近は商店、民家に囲まれているのに、一月二四日の夜に女の悲鳴が聞えたという裏付けとなる証拠もないのである。

(3)  姦淫の準備行為について

検証調書第三項3(五)、(七)(添付の写真12、13ないし19、21ないし23)によれば、犯行現場の被害者の屍体の右膝蓋部の下に紙袋が足下に敷かれた状態で落ちており、被害者の外陰部と両脚の下方に薄ピンク色ネツカチーフとズロースが敷かれたような状態であることが認められる。被告人は、41・3・10調書第九項において、強姦の際の準備行為について、被害者の着衣をとり姦淫するまでの間の着衣の種類、手順、方法につき具体的かつ詳細に述べているのであるが、姦淫の際物を敷いたかどうかにつき、ただ「ズロース二枚とも一緒に脱がせ、オーバーの付近に置いたかあるいは腰のあたりに敷いたようにも思います。」と述べたのみで、紙袋、薄ピンク色ネツカチーフを敷いたことについては全然触れていないし、ズロース二枚は別々のところに遺留されているのである。前記検証調書よりみれば、本件犯行の犯人は意識的に紙袋、薄ピンク色ネツカチーフ、ズロースを敷いたものとみられ、しかもそれにより姦淫の際犯人の着衣が直接地面に触れよごれることを防止するに役立つていると思われることからみて、犯人はかなり周到に犯行をなしたものと考えられるふしがあるのに、被告人はズロースについてのみ極めてあいまいに述べ、かつ、その他の物を敷いたことにつき全く触れていないことにつき疑問を抱かざるを得ないのである。

また、41・3・10調書では、「シミーズ、スカートは全部下まで引き裂いたとは思わなかつたのに、去る七日警察で女の衣類を見せられて現物は下まで切れているのが判つた。」というのであるが、検証調書(とくに添付写真)によれば、屍体の顔面および上半身にはスカートがひろげてかけられており、屍体及びシミーズ等遺留品の状況からみて犯人がシミーズ、スカートを全部引き裂いたのを知らず、現物をみせられて始めてわかつたというのも疑問がないとはいえない。

(4)  犯行現場におけるその他の証拠物で供述のないものについて

小賀坂喜八の司法警察員に対する供述調書二通、検証調書によると、被害者は一月二四日夜ミカン包と柿の包いずれも紐で縛つたものを持つていたこと、犯行現場にミカン包はそのままの状態で遺留され、柿は散乱しており、屍体の右膝蓋部の下に敷かれていた紙袋にはミカンの包と同じ果物店名が印刷されていることからみて、その紙袋には柿が入つていたものを犯人が出したうえ敷いたものとも推測される。また、屍体の右上腕部の北北西方約五センチのところに血液付着のチリ紙が丸められて落ちていることが認められ、菊地第三鑑定書によると、チリ紙の付着血痕の血液型はAB型反応を呈したが、人血以外に体液と思われるものが混入している、と鑑定されており、遺留されている場所関係などからみて、犯人がチリ紙で被害者のどこかをふいたうえで、捨てたものと推測されるところ、被告人の供述調書は、これらの点に全く触れていない。

7  財布及び金員の強取について

(1)  財布について

財布を奪つた時の状況につき、41・2・24調書では、「女の衣類を意識を失つて仰向けに倒れている女の上にかけて逃げるのが精一杯のような気持で急いでその場から逃げ出しましたが、着物をかけてやるときにオーバーのポケツトから二つ折の財布のような物が落ちたので、それを取つて行きました。」と、41・3・10調書では、「脱がしたスカート等を女の体の上にかけましたが、オーバーをかけるときにポケツトを最初に探つたら偶々財布のような物があつたのでそれだけ取つて現場から急いで逃げました。」と変つているのであるが、その変更の理由は明らかでない。

財布のような物の形態について、41・3・12調書では、「その財布は手触り等で黒つぽい皮製のものと思われ、二つ折になつていてその内側にセルロイドがついており、その中に紙切れが入つておりました。その反対の内側に蓋が差込み式になつた小銭入れがついており、」、「二つ折の内側に止め金具はついていなかつたと思います。」、「財布の大きさは普通位のもので型は長方形でありました。」となつている。ところで、証人山田善蔵の供述、同人の司法警察員に対する供述調書二通及び検察官に対する供述調書によれば、被害者の息子である山田善蔵は、被害者と美幸荘で同居していたものであるが、被害者が二つ折の皮製財布を持つているのを見たことはなく、昭和四〇年八、九月頃、被害者に対し、セルロイド製の両面すき通つた横一〇センチ位、縦八センチ位の定期券入れを買い与え、被害者がこれを使用していたのを二、三度見たが最後は同年一一月末か一二月初め頃に見たこと、新しく定期券入れを買直したかどうかについてはわからない、被害者が通常使用していた鈴のついた茶色の皮製蟇口は茶ダンスの中にあり、他に金を入れる物を持つていなかつたので、事件当日被害者はお金を裸のままオーバーのポケツトに入れていたか、定期券入れの中に入れていたのではないかと思う、述べ、証人土橋成吉も、被害者の勤務先の麻雀屋「いこい荘」で被害者がセルロイド製定期券入れを持つていたのを目撃したことがある、と供述している。しかし被害者が二つ折の財布を所持し、事件当日の昭和四一年一月二四日にもこれを携帯していたとの事実を裏付ける証拠はないのである。

(2)  奪取金額について

41・2・24調書、41・3・12調書によれば、被告人は、財布のような物から一、〇〇〇円札三枚を奪い、小銭入れは開けなかつたが、一寸重い感じで小銭が入つているような感じであつたが、お札があつたので小銭には手を触れなかつた、というのである。ところで、山田善蔵は、司法警察員に対する供述調書二通において、被害者・山田善蔵親子は生計を共にしていたものであるが貯金は一銭もなく、山田善蔵の給料日である二五日頃になると、手持金はほとんど残らなくなる状態であつた、被害者は、その日に使用する金のみ持ち歩き、それ以外はタンスの中に入れ必要以外の金は持ち歩かなつたようである、とし、昭和四〇年一二月二五日から昭和四一年一月二四日までの収支について詳細に述べているところ、それによれば、

表<省略>

(被害者死亡後タンスを調査したところ、五〇〇円位残つていた。)

というのであるから、差引一、二六〇円位が被害者が昭和四一年一月二四日当日持ち得た金額であるということになる。

しかし、証人山田善蔵の証言によれば、右以外に、電気代、ガス代、銭湯代を支払い、被害者は毎日ハイライト一〇本位喫煙し、酒を飲んで帰つてくることもあつた、というのであり、山田善蔵の司法警察員に対する供述調書二通によると、山田善蔵は同月二三日夜被害者にうまいおかずを買つて来るようにと一〇〇円硬貨五個を渡したこと、同月二四日山田善蔵は夕方新橋で映画を見て外で夕食をし、帰宅した時には食卓にかつと肉いため、お新香、焼魚が置いてあつたことが認められることを併せ考えると、被害者が事件当日所持し得た金額は、右一、二六〇円よりはるかに少額であるうえ、今関マサの司法警察員に対する供述調書によれば、被害者は、飲食店「喜良久」に来る前赤羽でビール四本を飲んで来たといい、同店に入つて来た当初から少し酔つていた、というのであるから、同店の他でも飲食したものとみられ、また同店においても、飲食代金、電話代金合計三七〇円を一〇〇円硬貨四枚を出して支払い、同店前からタクシーに乗つたことが認められ、検証調書によれば犯行現場に一〇〇円硬貨一枚が遺留されていたことが認められ、以上の諸事実を総合すると、被害者が金員を奪取される際三、〇〇〇円余りの金員を持つていたことを認めることはできないのである(もつとも、証人土橋成吉の証言によると、昭和四〇年一二月三一日に支給した給料は、一二、〇〇〇円ではなく交通費、食費込みで一三、〇〇〇円であつた、と述べ、山田善蔵の供述と一、〇〇〇円の食違いがあるが、これを考慮したとしても、被害者が犯行当時三、〇〇〇円余の金を所持していたことは疑問である)。

そうして、山田善蔵の供述の変化についても注意すべき点がある。すなわち、同人の司法警察員に対する昭和四一年二月一日付供述調書には、「被害者が同年一月二四日持つていた金は多分五〇〇円位で、その中から夕食のおかず等を買つて残金は三〇〇円足らずではないかと思う。」、「この金は蟇口が家にあつたので裸でオーバーのポケツトにでも入れておいたものと思う。」と記載されている。ところが、被告人が逮捕され警察で自供し、警察及び検察庁で供述調書が作成された後である同年三月四日付の司法警察員に対する山田善蔵の供述調書では、残つているはずの一、〇〇〇円札が一枚もなかつたので、被害者は事件当日少なくとも四、〇〇〇円位のお金は持つていたと思う。」、「被害者がいつも持つていた茶色の蟇口が茶ダンスの引出しの中にあつたので、ほかに被害者はお金を入れる物を持つていなかつたので定期券入れの中に入れていたのではないかと思う。」、「定期券入れは昨年八月被害者が福島から上京して来たとき持つて来たもので、セルロイド製両面ともすきとおつたもので大きさ横一〇センチ位、縦八センチ位で紐も何もついていない古いもので、この後二、三回被害者が持つているのを見ており、最後に見たのは昭和四〇年一一月末か一二月初旬頃で、その後は見ていないが相当古いものですから、その後被害者は新しい物を買つたかも知れません。」と述べ、昭和四一年三月九日付検察官に対する供述調書では、定期券入れは、昭和四〇年に病気になる少し前頃持つていたのは白のセルロイド製でありましたが、その後どんなケースを使用していたか記憶していない、と述べている。そうして、当公判廷において山田善蔵は、証人として、被害者が福島から上京して通勤し始める時(山田善蔵の司法警察員に対する昭和四一年二月一日付供述調書、証人土橋成吉の証言によると、被害者が上京して来たのは昭和四〇年八、九月頃で、上京後五日位して麻雀屋「いこい荘」に勤務するようになつたことが認められる。)に、押収にかかるセルロイド製定期入れ(前回押号の一四)のようなセルロイド製の定期券入れを買つてあげた、被害者がその後定期券入れを変えたかどうかわからない、と供述している。このような供述の変化は、被告人が逮捕され、奪つた財布ようの物及び金額につき自供した点と、山田善蔵が司法警察員に対する昭和四一年二月一日付供述調書において述べた点に大きな食違があるため、被告人の自供になるべくそうように取調べがなされ、山田善蔵がこれに迎合して作成されたのが司法警察員に対する昭和四一年三月四日付供述調書であるとの疑がないわけではない。山田善蔵は、当公判廷において、右供述調書で四、〇〇〇円位被害者が所持していたと思う根拠について、家の中をいろいろ調査したことと、同調書に書かれているような収支計算によるが、確実に四、〇〇〇円持つて出たというわけではない、と供述しているが、前記認定のとおり同調書の収支計算自体においても到底そのような金額は出てこない。また、当公判廷において証人山田善蔵が供述したように、昭和四〇年八、九月頃に定期券入れを買与えたことが事実であるとするならば、犯行時まで四、五カ月しか経過していないのに定期券入れを相当古いものであるとして買い換えた蓋然性が強いかの如くいうことも不自然である。

8  再度犯行現場に戻つたとする点について

検察官は、死体解剖結果(死因鑑定結果)が自白に真実性あることの十分な裏付けとなつている、と主張し、その理由として、医師山沢吉平作成の鑑定書の記載によると、被害者の「死因は扼頸によると推定される窒息である。」とされ、その「頸部には死後に生じた可能性の強い索溝が存する。」のであり、「頸部は索状物により二回以上死亡後に後頸部に於て絞められたものと推定される。」のである、検証調書の記載及び現場写真によると、被害者の頸部にはネツカチーフが巻きつけられてあり、屍体の外見から、捜査担当の警察官は死因を右ネツカチーフによる絞頸とし、その索溝には皮下溢血があるものと推測していた、屍体の外見からすればこの推測は極めて常識的とさえいえる、しかるに、被告人の自白は、最初から被害者の頸部を扼しその場を一旦立去つたが再び現場に戻りネツカチーフで絞めたというのであつた、鑑定の結果は頸部に出血等生活反応は認められないことが判明し、かえつてこの点は自供の有力な裏付けとなつたうえ、客観的事実に副う被告人の自白の真実性を一層高めることにもなつたのである、と主張する。弁護人は、本件の如き屋外の一対一の殺害行為において、いきなり、被害者の首にあるネツカチーフを二周して絞殺することはあり得ず、もし殺害するとすれば扼殺するしかない、捜査官に於ても本件被害者が先ず手で扼されたことは屍体発見直後において十分判明していたのである、被告人が被害者の頸を先ず扼し、その後ネツカチーフで絞めたとの供述は本件に特異な事項ではない、ただ、扼頸後約二時間して、ネツカチーフで絞めたとの供述と、山沢吉平の、被害者は扼頸後仮死の状態が長かつたものと思うとの供述部分が微妙な点で被告人の供述と一致するのである、右山沢鑑定人の判断の根拠は心臓内部に凝血があつたためであるという、しかし、右凝血は寒冷時の屍体の場合にもNるものである、本件の場合、被害者はほとんど全裸の状態で一晩中屋外地上に放置されていたのであつて、心臓内凝血は寒冷のため生じたものである、山沢鑑定の誤判の原因は事前に警察から被告人の自白内容を詳細に聞いたことによる以外は考えられない、また、被告人は被害者を後ろから同人のネツカチーフを二重にして絞めたというけれども、被告人のいう通り絞めたものであれば、索溝は首を一周する筈である、特に紐を首に二周し後ろから絞める場合は後部において紐のずれは一番多いのであるから、索溝は後頸において最も著しい筈であるにもかかわらず、本件には後頸に索溝がない、右は、本屍の絞頸は首をしめたのち後ろから引いたため前頸にのみ索溝ができたものと考えられ、この点も被告人の供述は事実に反する、右山沢鑑定書及び同人の検察官に対する供述調書は、索溝は死後に生じた可能性が強いというのみで死後に生じたとはいつていない、強盗強姦、強盗殺人事件において、犯人は一旦殺害した後逃亡に際しとどめをさすべく絞頸することはしばしば見分するところであつて、右鑑定結果は本件に特異な現象ではない、また、自分が殺害した被害者が裸で横たわる現場に殺害後二時間も経過してあらわれることは考えられないことであり、しかも屍体の生死を確認する必要は全くないにもかかわらずわざわざ屍体を抱き起してその生死を確める等も不自然である、と主張している。

犯行の態様として、犯人が一旦扼殺した後、ある程度の時間経過後に、再度犯行現場に舞戻り同一被害者を再度絞めたという点は極めて特異なものであつて、この点に自白と鑑定結果が一致するということは自白の信用性を非常に高めるものであるといつて差支えない。従つてこの点の判断は極めて重要である。41・3・10調書、41・3・12調書で、被告人は、事件当日の昭和四一年一月二四日午後一一時すぎ頃、左手で被害者の口を塞ぎ、右手で前首を絞め、その場に押し倒しその上におおい被るように中腰になつて跨り、更に左手を添えて夢中で力一杯首を絞めつけた後、姦淫したうえ、財布を取つて一旦犯行現場から逃走し、扼頸後約二時間経過して翌二五日午前一時頃犯行現場に舞戻り、ネツカチーフで被害者を絞頸した、と供述し、山沢鑑定書では、被害者の頸部には扼痕及び索溝があり、左側頸部より左下顎部に存する表皮剥脱は明らかに生前に生じたものであり、その形状から爪の如き作用面の粗な鈍体の作用によるものと考えられ、皮内に出血が存し、また舌根部筋肉内にも出血が認められるので、この部に生前に於て扼頸的作用が加えられたことは明らかである、また二周する索溝は索状物によるものであり、索溝の表皮剥脱が黄褐色で明瞭な生活反応が見られず、また索溝に一致した頸部軟部組織内出血もないので、この索状物の作用は本屍の死後において加えられた可能性が強いものと考えられ、窒息の原因は扼頸によるものと推定される、また、心臓内に軟凝血塊及び豚脂様凝塊を混ずる暗赤色血液を認めた、とされ、山沢吉平の検察官に対する同年三月一四日付供述調書(四枚のもの)においては、同様の理由により、犯人が一度絞め殺してから一時間後に再度現場に戻つて絞め直したとしても矛盾しない、とし、本屍の心臓内部に凝血が存在したので、本屍の窒息死は余り急激なものではなく、いわば亜急性のもので、仮死状態が長かつたものと判断した、とされているが、仮死状態の長さについては明らかにされていない。ところで、心臓内に軟凝血あるいは豚脂様凝血が存在したことをもつて屍体の仮死状態が長かつたといえるかどうかについては、法医学上確定した見解がなく争いがあり、むしろ、仮死状態が長かつたということが唯一の原因ではないという考えの方が多いようである。すなわち、窒息屍又は急性屍の血液に稀に豚脂様凝血を見ることがあるが(窒息屍の血液でも軟凝血塊=稀に豚脂様凝塊=を混じていることも稀ではないとされ、Wachholzは一六%に軟凝血を、二・七%に豚脂様凝血を、Maschkaは一〇・六%に凝血を認めたとされる。)、その原因について、ある学者は死戦期が長びいたことに原因を求め、ある学者は豚脂様凝血の存在は死戦期が長びいた理由とはならないとし、白血球過多の状態(生理的には食後、月経、過労など)、死戦期の甚だ長かつたもの(これも白血球の増加をきたす)、甚だしく衰弱して居た場合、死後急速に身体が冷却した場合など寒冷時における屍体の場合等に豚脂様凝血を認めるとしている(古畑種基・法医学七〇、七二頁。分担執筆者村上次男・法医学全集一〇六頁。分担執筆者友永得郎・法医学=金原出版株式会社発刊六一頁等)。しかして、前記第二の五の2血液、精液の型の項において認定したとおり、被害者は月経初期であり、検証調書、山沢鑑定書によれば、本件屍体は一年中で最も寒い頃である同年一月二四日深夜から翌二五日午前七時頃までの間、身体の前面裸体のうえに衣類を掛けた状態で一晩中屋外地上に放置されていたこと、屍体の直腸温も同日午後二時一〇分現在摂氏一五度(同時刻の室温、外気温とも三度)であつたことが認められるから、月経あるいは寒冷のため軟凝血塊、豚脂様凝塊を生じた可能性も十分あるわけである。従つて、心臓内に軟凝血塊、豚脂様凝塊があつたことのみを理由に仮死状態が長かつたこと、そして、また、扼頸と絞頸との間に二時間程度間隔があつたと断定することは危険であつて、同一機会に扼頸と絞頸が行なわれたか、別々の機会に行なわれたかは右の点からはいずれとも決し難いのである。

証人阿部正は、被告人は同年二月一八日に初めて自供したときから、犯行現場に二度行つたと述べていた、と供述し、他方被告人は41・9・6上申書で、高橋三好宅に帰つた時間につき、同年一月二五日午前一時頃といつたところ、取調官から、隣に寝ていた篠原脩や同僚の原進吾は、お前が二時頃に帰つたとはつきりいつている、嘘をいうな、と追求され(上申書五丁)、また再度犯行現場に戻つたということは、最初に自白した段階では自供しておらず、自供後二日位して、取調官から、広江ヒロ子、仁平彬と別れて高橋三好宅に帰るまで時間がかかりすぎる、被害者がなお金目の物を持つているのではないかと思い、また完全に殺そうと思つて、再度現場に行つたのだろうと追求された結果、そのように自白するに至つた、と述べている(同書三七丁以下)。本件記録中の同月一月一九日付本件逮捕状請求書では、被疑事実として、同一機会に、被害者の口を押え仰向けに押し倒し、同女のネツカチーフで首を絞め、同女を死に至らしめた上強姦し、金品を奪取した、とし、資料として被告人の司法警察員に対する供述調書が添付されていること、証人阿部正の供述による同年二月二四日頃に、山沢吉平鑑定人に対し、電話で、犯人が扼頸した後再度犯行現場に舞戻りネツカチーフで絞めたと供述しているのだが、その点屍体解剖結果と矛盾しないか、との問合せをなし、矛盾しない、との回答を得たことが認められ、これらの点から考えると、被告人が上申書で述べているような事情の下に被告人が再度現場に行つたことについての供述をしたものではないかとの疑も生ずるのである。死体検案調書、検証調書第四項2(九)によれば、屍体発見当時から屍体左右の耳後部に小豆大の表皮剥脱と、左耳の裏に大豆大の擦過傷のあることが認められたのであるから、死因が扼頸によるか絞頸によるかの点は不明であつたとしても、犯人が被害者の頸を扼したことは取調官において判明していたはずであつて、本件において死因を絞殺と推測していたところ、鑑定の結果扼殺の可能性が強いということが判明したので全く意外だつたとするのは、誇張にすぎないか、あるいは、捜査当局があまりに単純に絞殺と思い込んだという結果にほかならないと考えられる。なお、弁護人は絞め方の点についても問題としているけれども、後部に索溝がないのは、検証調書によれば、ネツカチーフが一部髪の毛をかんだ状態で結ばれているためであると認められ、その他の弁護人の主張事実については、本件記録上いずれとも認めるだけの証拠はない。

なお、証人阿部正の供述によると、被告人が自供した際図面を書かせたところ、シミーズの破き具合、屍体の頭の位置、ネツカチーフの結び目の位置が、犯行現場の実際と相違し、ネツカチーフを女の首の右側で横結びに結んだ図面を書いたが、訂正をさせずそのままにして置いた、と述べているのであるが、41・3・12調書では、「ネツカチーフを二重に巻きつけ力一杯絞めつけて首の真後ろあたりでそれを二重に結び止めた。」となつており、検証調書によれば、結び目は正中線の後ろにあることが明白であつて、客観的事実に符合するよう追求を重ねた結果、被告人の供述が変つたのではないかと推測される。

9  手紙、コンパクト、手袋半双、時計について

鎌田勇蔵の司法警察員に対する供述調書、第一、第二遺留品発見報告書、押収してある手紙一通(前同押号の七)、封書一通(前同押号の八)、コンパクト一個(前同押号の九)、手袋黒色右半双(前同押号の一〇)を総合すると、昭和四一年一月二五日午後四時頃同都北区東十条五丁目三番地の九鈴木栄一方前溝内において、コンパクト一個、女物手袋半双、丸められた便箋二枚の手紙及び封筒の破いた細片(小賀坂喜八から山田哲子宛のもの)が発見され、いずれも指紋保全措置がとられたことが認められる。41・3・12調書によると、手紙について、「金でも入つているのかと思つて調べたのですが、無かつたので封筒の方を四つ位に千切りそれを便箋で丸めるようにして捻つて左の道路脇に捨てました。」と供述しているけれども、第二遺留品発見報告書によると、封筒は一一片以上に千切られて捨てられたおり、また千切つた封筒の破片を便箋で丸めるようにして捻つて捨てたような状況は見当らない。

コンパクトについて、41・3・12調書では、「警察でコンパクトのことも聞かれましたが、そのことについては全く覚えがなく、あるいは手袋を取り出すときに気がつかないで落したかも知れません。」と供述している。しかし、奪取されたとする物品中ではコンパクトが最も形が大きく(直径八・五センチ、厚さ一・五センチ)、目につきやすいはずであり、深夜でもあるのに落したかどうかの物音も気付かず、単にこれに気がつかないで落したかもしれない、という点には疑問がある。山田善蔵は、司法警察員に対する昭和四一年二月一日付供述調書で、「被害者が使用していたコンパクトがなくなつているが、右の発見されたコンパクトは被害者のものでないように思われる。」とし、「被害者使用のコンパクトは、肉色セルロイド製で蓋が開くのではなく、抜き取るようになつていて、直径が八センチないし八・五センチ位の円型のもので、厚味が三センチ位のものである。」と述べ、山田善蔵の司法警察員に対する同年三月四日付供述調書では、「発見されたコンパクトが被害者のものかどうかわからないが、田舎の橘内きよ子は被害者が蓋に花模様のあるコンパクトを使用していたと言つていた。」と述べ、再度コンパクトを示されたが、「被害者のものと色は似ているけれども、被害者のものと断定できないし、被害者がこのコンパクトを使用していたのを見たこともない。」と述べ、山田善蔵の検察官に対する供述調書では、「コンパクトは被害者が鏡の前で時々使用しているのを見たが、丸型で蓋の表が黄色ぽく模様もついていたように思います。蓋の金具が壊れていたためか判りませんが、蓋を取つて別のところに置いて中味を使用していた。田舎の叔母橘内きよ子の話によると被害者が正月に実家に帰つたとき持つていたコンパクトは蓋に花模様が入つていたということです。」と述べ、発見されたコンパクトを示されたが、「蓋の色や型などから被害者が持つていたものに似ているように思うが、断言はできない。」と述べ、植木原彬延も検察官に対する供述調書で、「発見されたコンパクトと同じ位の大きさで、蓋の蝶つがいで開くようになつた丸型で蓋の表の色は黄色がかつて模様が入つているコンパクトを取り出し蓋を開いて化粧するのを見たことがあり、発見されたコンパクトと似ているが断定はできない。」と述べている。41・3・12調書で、被告人は、犯行現場へ舞戻つたときに、手袋を両手ともはずしてポケツトに収め、従つて、素手で時計等の物品を奪つて逃走し、右鈴木栄一方前を通りすぎ宮堀交番の前あたりで手袋をはめた、と供述し、他方前記認定のとおり、コンパクト等について指紋保全措置がとられたとされているけれども、コンパクトから指紋が採取されたとの証拠はない。いずれにしろ、右認定の諸事実に鑑みれば、発見されたコンパクトが被害者のもので、かつ、被告人がこれを奪取したと断定することはできないのである。

時計について、41・3・12調書で、被害者から奪つた腕時計は、同年二月一四日午後六時半から七時半ころの間に横浜の山下町の河にチリ紙に包んだまま捨てた、と供述している。証人青木光三郎の供述(第一回)によれば、被害者の腕時計が奪われていることが、同人の息子山田善蔵を取調べた結果判明したので、捜査当局においてもその行えについて最も重点を置いて捜査したものの一つであり、被告人は時計を投棄した場所として、「横浜の朝日運輸の寮の自分の住んでいる隣の部屋に置いてある。」とか、右寮の「入口の床下に置いてある。」といつたり、あるいは「高橋三好宅の傍の溝に捨てた。」といつたり、供述が転々とした後、結局横浜市中区山下町二七七西ノ橋中央やや麦田町寄りの欄干から河に捨てた、という供述を得たので、同年三月七日捜査官一五名が一日がかりで、磁石、ジヨリンなどを用いて、その河の中を捜査したが、なにも発見し得なかつたことが認められ、証人横沢宏の証言によると、被告人は、王子署の看守横沢宏に対し、東京拘置所に移監される少し前頃に、「自分は本件の犯行をやつていない。」、「横浜の河に時計を捨てたと云つたけれどもそれはでたらめであるから時計が出るはずがない。」といつたりしたことが認められる。青木光三郎、阿部正等捜査官は、被告人は当初否認し続けたが、自白してからは犯行の動機、方法につき任意に自供し、あるいは図面を作成した、というのであるけれども、すでに犯行を自白する態度に出ている以上時計の投棄場所の点についてのみ嘘を付くということは何ら理由のないことであり、むしろ、被告人が41・9・6上申書でいうとおり、時計の処分、投棄場所の追求がきびしいため、やむを得ず言い逃れのため、その場限りの場所をいい、捜査の結果そこに時計が発見されないため更に追求されて供述が変り、結局河に捨てたということで追求が止んだ、と見られないわけではなく、また、被告人が時計を奪取したり、捨てたりしたことがないが故に投棄場所を明らかにすることができなかつたのではないか、ひいては被告人が真犯人ではないのではないか、との疑念が生ずるのである。

検察官は、本件被害品である手袋半双、コンパクト、封書等は、一月二五日午後四時一〇分頃犯行現場より約五〇メートル離れた同都北区東十条五丁目二番地の九鈴木栄一方前溝内で発見されたが、被告人はこれらの品物を自から右場所に捨てた、と自供し、その投棄場所を指示しているのであつて、捜査官が取調べの段階で事前に右場所を教えたことはなく示唆したことすらない、投棄場所につき自白と客観的事実との一致はそれが自白の真実性の十分な裏付けの一つとなつていることを強調したい、と主張する。前記認定のとおり、検察官主張の日に、その主張する場所において、コンパクト一個、手袋半双、封書一通が発見され、証人青木光三郎の供述(第一回)によると、同年三月二日被告人につき引廻しをしたところ、投棄場所を指示し、それが右物品発見場所と一致した、というのである。しかし、41・3・12調書によると、被告人は、右のほか奪つた財布をガード下の角の右側の家の脇に捨て、時計を同年二月一四日夜横浜の山下町の河に捨てた、と述べている。ところが、被告人が奪取しかつ投棄したと述べている物品中、すでに被告人逮捕前に発見され捜査当局に投棄場所の明白なものについてのみ被告人の供述と投棄場所が一致するのみで、被告人の供述によつて初めて投棄場所が判明し、被害物品が発見された物はないのである。そうして、前記認定の警察における取調経過、右認定の諸事実に照らすと、被告人が自から任意で、コンパクト、手袋半双、封書の投棄場所として、該物品が発見された右鈴木栄一方前溝内を指示したとの右青木光三郎の供述をたやすく信ずることはできないのである。

10  高橋三好宅に帰つた時刻について

41・2・24調書、41・3・12調書では、犯行後高橋三好方に帰つた時刻につき、「寝る前に腕時計を見たら丁度二時か二時一寸前頃でありました。」と供述し、証人原進吾も、被告人から、高橋三好方に帰つたのは一月二五日午前二時頃であるという話しを聞いた、と供述している。ところが、第二回公判調書中証人篠原脩の供述記載によると、同日被告人が高橋三好方四畳半の間の窓から屋内に入つて来たのを目撃した同僚の篠原脩は、就寝したのが同月二四日午後一〇時か一一時頃で、一寝入りしてから、被告人が窓から入つて来たとき目を覚ましたので、その時刻は翌二五日午前零時すぎ頃と思う、と述べるのみで、帰宅時刻の点では必ずしも正確ではない。前記認定のとおり被告人は、同月二五日午前零時頃「ハンター」を出て広江ヒロ子を追い、同女が仁平彬と共に歩いているのを目撃して、仁平彬と口論となり同日午前零時三〇分頃広江ヒロ子の居住するアパート近くで両名と別れたこと、当裁判所の検証調書によれば、犯行現場である東十条郵便局中庭から高橋三好方との間は通常経路によると歩行に要する時間が約一一分三〇秒であり、41・3・12調書によると、「犯行現場である東十条郵便局中庭に舞戻つてそこを出るまでの間は約五分間位であり、急ぎ足で七環の方に向い信号も見ないで走つて交差点を渡り、取つたものを歩きながら出して調べ、手紙、手袋を(右鈴木栄一方の)道路脇に捨て、その先の十字路を右に曲り、それから一つ二つ先の辻を更に右に曲つて七環通りに出て、高橋宅まで帰つた。」というのであるから、廻り道をしたことを考慮したとしても、犯行現場から高橋三好宅まで約一五分位で到達したということになる。他方、第二回公判調書中の証人広江ヒロ子の供述記載によると、広江ヒロ子の住居は同都北区中十条二丁目二番地であり、右検証調書添付図面による場所的関係からみて、犯行現場から広江ヒロ子の住居まではおおよそ犯行現場から高橋三好方と同程度の距離であり、従つて歩行に要する時間は一〇分ないし一五分程度と考えられ、また被告人は右41・3・12調書によると、「二五日午前零時三〇分頃広江ヒロ子、仁平彬とわかれてから「ハンター」に戻り、二、三度閉つている表のドアーを叩いたが開かなかつたので諦めて、花屋の角を右に曲つて朝日寿司のところを左に折れて、犯行現場に行つたが、その頃の時刻は午前一時一寸前頃と思う。」と述べているところから考えると、被告人は広江ヒロ子らと別れてから再度犯行現場に行き絞頸したうえ、遠廻りして高橋三好宅まで帰るのに合計三五分程度で足りるわけで、帰宅時刻を午前二時頃とみた場合その余の五五分の時間をどこでついやしたかの疑問が生じ、かつ、はたして被告人がいうように高橋三好方に帰つた時真実腕時計を見て午前二時頃であつたのかどうか疑問の余地がある。被告人も、当公判廷において、高橋三好方に帰つた時間は二五日午前一時前後頃、遅くとも一時一〇分頃である、と供述し、検察官も論告で、被告人の右供述調書の二五日午前二時によることなく、被告人の供述のとおり帰宅時刻を午前一時すぎ頃としても、犯行現場に舞戻り再度犯行に及んだのが二五日午前一時頃とするにつき矛盾はないと主張するのは、犯行現場に再度舞戻つたとしても、また全然犯行現場に行かなかつたとしても、高橋三好宅に帰宅した時間は二五日午前一時頃とみるのが最も客観的状況に合致するからに外ならないと思われる。

11  結論

以上述べたように、被告人の検察官に対する供述調書三通には、その内客について種々の疑問がある。そうして、司法警察員に対する被告人の供述調書は任意性に疑ありとしてすでに排除されており、被告人が検察官に対しても一旦は否認したが、また自白するに至つた事情をも考え併せると、右自白調書全体の信用性について疑問があるといわざるを得ないのである。従つて、かかる検察官に対する自白調書三通をもつてしては、被告人が本件犯行を犯したものとの確信を生ずるに由なく、これを断罪の証拠とすることができない。

八、被告人に真犯人と思われるような言動があるとの検察官の主張について

(1)  原進吾に関して

検察官は、証人原進吾の供述によると、被告人は一月二五日横浜の現場で同僚の原進吾に対し、「東京で煙草のことで友達の顔を刃物で傷つけた。」、「横浜へ来る時パトカーを見た。」、「東京も狭くなつた。どこかアパートにでも住みたい。」などといつていた、というのであり、被告人が傷害事件を起した事実はないのに、東京から横浜に行つた直後に右内容の話をしたことはそれ自体不審な言動という外はない、このような被告人の言動は、自己の犯した犯罪の重圧に耐えかねて、その重苦しい心理状態を軽減しようとして他の事実に託して表現されたものと見るべきであつて、犯罪人の心理として通常見受けられるところである、と主張する。

証人原進吾の供述によれば、被告人が原進吾に検察官主張のようなことをいつていたこと、アパートの話は同年一月六日頃から出ていたことが認められる。ところで、同月二五日午前零時頃仁平彬と口喧嘩になつたことは前記認定のとおりであり、41・3・12調書、41・8・2上申書、当裁判所の証人高橋光子に対する尋問調書、捜査報告書によると、同年一月二五日午前七時二七分に東十条郵便局前道路上にパトカー一台が到着し、五分後にパブリカの捜査用自動車が到着し停車していたこと、被告人は、同日午前七時二〇分頃高橋三好宅を出て東十条駅に行く途中、角田金物店の四つ角でパトカーの停車しているのを見ながら真直ぐ歩き、突当りを左に折れて駅に出て、横浜に戻つたことが認められ、被告人の喧嘩の話はたしかに事実に反してはいるが、被告人の年令等から考えて見ると、これを誇張して話したともいえないわけではないし、パトカー、アパートなどの話を併せ考えて見ても、被告人が原進吾に右の話をしたことをもつて、被告人が真犯人であることをうかがわせるに足るものとまではとうていいえない。

(2)  山田滋子に関して

検察官は、証人山田滋子は「セブンハート」のホステスであるが、被告人が二月五日頃来店して帰る時、同人を送つて店外へ出たところ、ドアーのところからいきなり手を引張られた、その時の表情はものすごく、同人が酔つているとは見えなかつただけにひどいシヨツクを受け、恐ろしくなつて、その夜は帰宅の際右バーの経営者鈴木貞夫に送つてもらつた程であつた、と供述しており、右行為からは、犯行そのものと犯行の発覚をおそれるうつ積した気持が異常な行動として現われたものと見られ、かつ、被告人の気分変異性、短気かつ粗暴な性格の一端も窺われる、と主張する。

証人山田滋子は、検察官の主張のとおり供述しているほか、いきなり女の手を引張るようなことは酔客が別れぎわなどによくやることであつて、別に異常とは思わないが、その時被告人が酔つているとはみえなかつたし、また普段女の手を引張るようなことをしない人だつただけに驚いたこと、一月二五日「セブンハート」で、客の間で、東十条郵便局中庭内で女が殺されたということが話題となり、篠原脩が、被告人が横浜に行つているはずなのに急に同日午前零時か一時頃帰つて来て変だ、と挙動不審者であるかのようにいい、同女も当初はこの話に格別気にもとめなかつたが、その後一月末頃に聞込みのため捜査員が店に来て、同女も取調を受けたこともあつたところに、二月五日突然被告人が「セブンハート」にやつて来て「篠原はいないか。」とか、「最近来ていないのか。」と聞いたり、日頃同女に手を出したこともない被告人が、酩酊している様子もないのに、突然同女の手を引張つたことから、咄嗟に篠原脩から聞いた話を強く思い出し、被告人が犯人ではないかと思い、右行為に恐怖を感じた、と供述しているのであつて、被告人が山田滋子の手を引張つたとき異常な顔付で、その行為も異常に感じたというのも、右のような事情から、被告人が犯人ではないかとの先入感が強く働いていたからであることは、右供述自体の内容から看取し得るのである。従つて、被告人が山田滋子に対してした言動から被告人が真犯人らしいことを強調し、これを断罪の証拠とすることはできないものといわなければならない。

(3)  鈴木啓子に関して

検察官は、「セブンハート」経営者の妻鈴木啓子も、証人として、被告人が二月五日頃同店に来た際、聞かれもしないのに、被告人の方から「人を殺して来た。」、「自分がこう思つたらだれでも殺してしまう。」と、また本件当日は「こちらにいなかつた。」と話していた、と供述し、そこには犯行を独白しながら一方では検挙を虞れるという錯雑した犯人の心理を読みとることができる、と主張する。

証人鈴木啓子は、二月五日被告人が店に来てカウンターで飲酒しているときに、同女がカウンターに乗せていた被告人の右手の傷跡(当裁判所が検証したところによれば、右手甲中指の指根関節から約二・五センチメートル手首に下つたところに、長さ二センチメートル、幅四ミリメートルの白色の治癒した古い切創痕がある。)を指し、「これどうしたの。」と聞いたところ、被告人は「二、三日前に人を殺して来たんだよ。」といい、その時に出来た優のようにいつていたが、同女の感じではそれより前の優のように思えた、被告人はまた「自分はこうと思つたら、誰れでも殺してしまうんだよ。」とか、「あの時はこつちにいなかつたんだよ。」、「いないことになつているんだよ。」というようなことをいつていた、その時被告人の顔の右側に木の葉でこすつたような長さ四センチ位とそれより短いのと二本の筋のような傷があつた、手の甲の傷も顔の傷も店の電気の明るさでもはつきり見えた、と供述しており、その供述が真実であるならば、それは被告人が真犯人ではないかと疑わしめる間接的事情として重要なものといい得る。ところが、当裁判所の証人高橋光子に対する尋問調書によれば、同女は一月二五日、三一日、二月六日いずれも被告人の顔に傷跡をみたことがない、と供述し、その他同僚の原進吾、バー「ハンター」の経営者内野常吉、ホステスの広江ヒロ子、「ベラミー」の梅山茂子らの二月五日までの間被告人と接触したことのある人々のいずれもが、被告人の顔及び手の甲に顕著な傷を見たことを指摘していないし(ことに二月五日は午後八時半頃から一二時の閉店まで「ハンター」で飲酒し、その間三〇分程度中座して「セブンハート」に行つたことが第二回公判調書中広江ヒロ子、内野常吉の各供述記載により認められるところ、同人等は傷の点を全く記憶にとどめていないかの如くである。)、証人青木光三郎(第一回)、同松下信男の各供述によると、被告人を逮捕した二月一五日当時において、警察官も被告人の手の甲の傷跡に気付いたが、それは古いもので本件と無関係であると認め、被告人自身も田舎にいる時の傷だといつていたこと、顔の傷について東京大学の医師に実見して貰つたが、事件当日顔に傷があつたかどうか判らないと判断されたことがそれぞれ認められる。前記第二の四被告人が検挙されるに至つた経緯の項において認定した事実に照らせば、鈴木啓子は二月五日以前に、山田滋子から、篠原脩が被告人につき話していた内容を聞いていたことが明らかであり、捜査官が聞き込みに来て、被告人につき不審な点があるとして情報を提供したその日に被告人が「セブンハート」に来たことから、被告人が真犯人ではないかとの先入感を益々強め、古傷をも本件犯行に関係あるかのように解し、被告人の言動をすべて犯人ではないかという疑惑の目で見た結果が前記のような供述になつたものと考えられないではない。従つて、同女が特に虚偽の事実を述べる必要もなく、被告人と何等特殊の関係もないので、同女がことさら虚偽の事実を意識的に述べたとは解し得ないにしても、前記事実関係からして、同女の先入観からする偏見が混入していること及び被告人の手や顔の傷について客観的事実と異なる事実を供述していることを考えると、その供述には全面的に信用性があるものともいえず、これをもつて、本件犯行を証明するに足るものとはなし難いのである。

九、アリバイの主張及び被告人の有利な事情について

前記認定のとおり、被告人は昭和四一年一月二四日午後一〇時三〇分ないし四〇分頃から午後一一時二〇分頃まで「ハンター」以外の場所にいたのであるが、検察官は、論告において、本件犯行は同日午後一一時五分頃から午後一一時二〇分頃の時間帯に行なわれたものと推測され、被告人にはアリバイがないと主張し、弁護人及び被告人は、同都北区神谷町一丁目二五番地所在バー「ベラミー」こと梅山茂子方(以下単に「ベラミー」と略称する。)に行き、同店に一五分位いて再び「ハンター」に戻つたものである、被告人は、同日「ハンター」で多量の飲酒をしていたので「ベラミー」では酒を注文しなかつたところ、偶々同店に来ていた清水紘樹からビールを注がれて勧められたが飲酒せず、ツマミ二皿のみを注文し、一五分位いて再び「ハンター」に戻つた、「ハンター」と「ベラミー」間は片道七、八分位のところであつて、被告人が「ハンター」を中座していた間は三、四〇分位であるから、被告人にはアリバイがある、と主張する。

そこで、右アリバイの主張について考察すれば、次のとおりである。この点については、被告人の当公判廷における供述及び41・8・2上申書が、被告人のアリバイの主張に添うほかには、被告人のアリバイを裏付けるに足る証拠はない。すなわち、証人梅山茂子は、被告人がフ「ベラミー」に来た日につき一月二二日と三一日の二回来店したことははつきり記憶しているが、その外にははつきりしないが一月二二日より二、三日前である同月一九日頃にも来たかもしれないような記憶がある、その際横浜に泊り込みで行つているようなことをいつていた、同月二二日には、寒いので横浜から高橋三好宅に毛布をとりに来たといい、九〇〇円か七〇〇円位の飲食をして行つた、同月三一日には、未払飲食代の支払に来て、同月二二日の飲食代とその前の分で少し残つていた飲食代を含め合計約二、〇〇〇円(同月三一日の飲食代を含めたともいい、また含めたかどうかはつきり記憶しないともいう)を支払つた、同月二二日か三一日のことかわからないが、一月中に清水紘樹が「ベラミー」に来て飲酒中、被告人が何となく店に入つて来て同人と会い、被告人は酒を注文せず、右清水からビールを注がれて勧められたことがあつた、その時被告人は「ベラミー」に一五分位居ただけで三〇分はいなかつた、被告人がツマミ二皿をとつたのは二月五日のことであつて、この時は清水は来ていない、その日には勘定の予定の人がいて、その人が今日来るなと思つているところに被告人が来たので記憶している、警察で聞かれたときには、「清水紘樹が店でビールを飲んでいる時被告人が店に入つて来て二人が会つたのは二月五日で、その時被告人は店に入つて来たものの今日は飲みたくないといつたが、清水紘樹は被告人にビールはどうですかといつて注いでやつた、その時被告人はツマミ二皿を取つたが代金六〇〇円はつけにして同月一五日に支払うといつて出た。」と述べ、そのときには記憶のまま述べたが、日時の点ははつきり記憶していない、被告人が一月二四日に「ベラミー」に来たことはない、その理由は、近所の人が来たので、私は一緒に帰ろうと思い、閉店になつて一二時頃女の子達と一緒に帰つたので、この日は被告人は来ていない、もつとも同日来た客が誰々であるか記憶していないと、供述し、証人清水紘樹は、「日時ははつきりしないが、一月末か二月初め本件事件前後比較的近い頃に『ベラミー』で被告人と会つた記憶があるが、その時被告人にビールを注いでやつたかどうかはつきり記憶しないけれども、注いでやつた方が強い記憶がする、ツマミのことは記憶していない、『ベラミー』にいた時間はそんなに長い時間ではないように思う、その時偶々被告人と一緒に店を出て、同店から駅の方向に二・三〇メートル一緒に歩いた後自分は家の方に右折し、被告人はそのまま真直ぐ駅の方に商店街を歩いて行つた。」と供述しているが、これらの供述によれば、被告人のアリバイが明確に成立するものとは認められない。

ところで、証人原進吾の供述、当裁判所の証人高橋光子に対する尋問調書、41・8・2上申書によると、被告人が一月一七日から横浜で泊り込みで仕事をするようになつてから二月一五日に逮捕されるまでの間、高橋三好方に帰つたのは、一月二二日、二四日、三一日、二月五日の四日のみであつて、一月一九日に帰つたことはないから、この日に「ベラミー」に行つたり、清水紘樹に会つたことがないことは明白である。証人梅山茂子の前記供述によると、被告人は同月二二日「ベラミー」に来て九〇〇円か七〇〇円位の飲食をしたが、被告人が清水紘樹と会つたときには、被告人は酒を注文せず清水にビールを勧められたというのであるから、両者が「ベラミー」で会つた日が同月二二日でないこともほぼ明らかである。証人山田滋子、同鈴木啓子の各供述、第二回公判調書中証人内野常吉、同広江ヒロ子の各供述記載によると、二月五日には、被告人は仕事を終えてから桜木町駅から東十条に帰り、午後八時半頃から一二時の閉店頃まで「ハンター」に居て四、一五〇円相当の飲食をなし、広江ヒロ子をアパートまで送りながら同女とお茶漬を一緒に食べ、翌六日午前一時頃に高橋三好方に帰つたが、「ハンター」で飲食していた間三〇分位同店を中座し、その間「セブンハート」で飲食して戻つたことが認められ、被告人が「ベラミー」に行く時間的余裕はなく、二月五日に被告人が「ベラミー」に行き清水紘樹と会つたことはないこともほぼ明らかである。もし可能性があるとすれば、午後八時半前で「ハンター」に来る前に「ベラミー」に寄つたということになるが、証人梅山茂子自身、この日に清水紘樹は同店に来なかつた、と証言しているし、被告人が酒も飲めないような状況もないので、「ベラミー」で清水紘樹と会つた日には酒も注文せず、ビールを注がれて勧められても飲まなかつたというのであるから、両人が会つた日が二月五日でもないようである。証人原進吾の供述、当裁判所の証人高橋光子に対する尋問調書、第二回公判調書中証人内野常吉の供述記載によると、一月三一日は給料日であるため、被告人は、横浜での仕事を午後五時半か六時頃に終え、高橋三好方に帰り、給料(一六日から三一日までの分)として一四、八〇〇円のうち一〇、〇〇〇円を高橋光子から受領したこと、この日「ベラミー」に行きつけにしてあつた飲食代約二、〇〇〇円を支払つたこと、また「ハンター」に行きビール等を飲食し、二四日の第二回分飲食代九〇〇円とともに全額支払つたことが認められる。もつとも、「ハンター」に行つた時間につき、右内野常吉は、午後八時三〇分頃来て一時間か一時間半位店に居てビール四本を飲んで行つたといい、41・8・2上申書では、被告人は、高橋三好方を午後九時頃に出て、まず「ベラミー」に行き、つけにしていた未払飲食代を支払い、ビール一本位を飲んで二〇分位で店を出て、それから「ハンター」に行き二四日の飲食代九〇〇円を支払い、いつものように飲食して真直ぐ高橋三好宅に帰つたが、帰宅時間は翌二月一日午前零時四〇分頃であつた、と供述する。被告人の当公判廷における供述(とくに昭和四一年一一月一二日の公判における供述及び添付図面)によれば、「ベラミー」は高橋三好方から「ハンター」に行く途中にあるから、通常の経路としては、「ベラミー」、「ハンター」の順で行くことが推測される。この日は、月末で、被告人が一月中のつけを清算した日であつて、梅山茂子としても他の日より日時の記憶し易い日であるけれども、被告人が清水紘樹に会つたとする日あるいはツマミ二皿のみをとつた日と代金支払の日と関連性がなく、少くともその日と記憶のうえでは結び付いていないこと(何の用事もなく、ただぶらつと店に入つて来たとする)、また前記のとおり梅山茂子は一月三一日には「ベラミー」で被告人が飲食をし当日分を含めて約二、〇〇〇円の支払を受けたとの趣旨の供述をしている部分もあること、この日「ベラミー」に入つた当時酒が飲めないような状況は見当らず、かつ、当日月給を貰つたばかりでツマミを次回の給料日までつけにしておく必要もないから、一月三一日に「ベラミー」にまず寄りその際清水紘樹と会つたとか、あるいはツマミ二皿のみをとつたという可能性は少ない。この日「ハンター」から高橋三好宅への帰途「ベラミー」に行つたとしても、被告人と清水紘樹が「ベラミー」で会つた日は、清水紘樹と一緒に店を出て三〇メートル位一緒に駅の方向に歩き、その後被告人は商店街を駅の方に向つて真直ぐ行つたというのであつて、それは高橋三好宅と逆方向になることを考えると、一月三一日「ハンター」からの帰途「ベラミー」に寄り清水紘樹に会つたという可能性も薄い。

一月二四日について、梅山茂子が被告人はこの日に「ベラミー」に来なかつたとする前記理由は、同日午後一二時の閉店の頃に被告人が店に来ていなかつたことの理由とはなつても、被告人がその日に来なかつたと断定し得る理由とはならないし、同女自体、当日来た客が誰であるか記憶していない、と述べている。前述のとおり梅山茂子が被告人の「ベラミー」に来た日を一月二二日、三一日ははつきりしており、一月二二日の二、三日前にも来たように記憶していると供述している点と、被告人が一月一七日横浜に仕事に行つてから二二日まで東十条に戻つて来たことはないことを併せ考えると、同月二二日、三日前にも来たような記憶があるというのは、同日の二、三日後にも来たという記憶違いで、同月二四日にも被告人が「ベラミー」に来てその二、三日前すなわち二二日にも来たということも充分あり得る。ことに被告人が「ベラミー」で清水紘樹と会つた日時が同月二二日、二月五日でないことはほぼ明らかで、一月三一日でもない可能性も大きいことから相対的に同月二四日の可能性を強くならしめるし、「ベラミー」で清水紘樹と会つた後一緒に店を出て二、三〇メートル一緒に駅の方に向つて商店街を歩き、そこで右清水と別れて被告人は真直ぐ駅の方向に向って商店街を歩いて行つたというのであり(「ハンター」、「セブンハート」の方向に当る)、それが高橋三好宅に反対方向にあたり、「ハンター」に行く通常の経路であること、被告人が「ベラミー」で清水紘樹と会つたとき、同店にいた時間は一五分位で三〇分はいなかつたということ、当裁判所の検証調書と前記被告人の当公判廷における供述の際の添付図面を併せ考えると、東十条郵便局と高橋三好方までの所要時間から推計すると、「ベラミー」と「ハンター」間の通常経路による歩行所要時間は約七分程度と考えられるから、被告人が一月二四日「ハンター」を出て、三、四〇分経過後に再度同店に戻る間、「ベラミー」に行つて来たとしても、時間的に矛盾しないこと、同日「ハンター」を一旦出るまでの間銚子一三本もの日本酒を飲んだことを考えると、被告人が清水紘樹にビールを注がれて勧められても飲まなかつたことが納得できることなどを総合すると、証人梅山茂子、同清水紘樹の供述内容が必ずしも明確でなく、被告人主張のアリバイを確認するまでには至らないけれども、その成立の可能性もないわけではないのである。従つて、検察官主張のアリバイ不存在の事実を確認することもできないのである。

なお、第二回公判調書中証人広江ヒロ子、同内野常吉の各供述記載によると、一月二四日、被告人が「ハンター」を一旦出て同日午後一一時二〇分頃再度同店に入つて来た際、被告人の態度には何らの変化もなく、服装の乱れも汚れたところもなかつたことが認められ、証人原進吾の供述によつても、翌二五日に被告人が喧嘩や、パートカー、アパートの話をしたことがある以外、逮捕される二月一五日まで被告人の態度に何んら異常と認むべき態度、言動が見られず、通常のとおり仕事に従事し、任意同行の際にも特段変つたことはなかつたことが認められる。

一〇、結語

以上、本件においては被告人を真犯人とするにきめ手となるべき確実な具体的証拠がなく、ただ被告人の捜査段階における自白のみが被告人と本件犯罪事実とを結びつける証拠であるが、その自白については、前記のとおり、信用性に疑問があるのであつて、これを十分な証拠価値あるものとは認め得ないから、結局、本件犯罪の証明は不十分であるといわざるを得ない。よつて、刑事訴訟法第三三六条により、被告人に対し無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 真野英一 金子仙太郎 朝岡智幸)

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